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森一敏
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 七尾中国人強制連行問題

七尾強制連行聯誼会との熱い討論
   (訪中報告 森かずとしのワイワイ談話室2010.7.20 より)

上告審 不当な棄却 (森かずとしのワイワイ談話室 2010.7.20 より)
控訴審判決 不当な棄却 (森かずとしのワイワイ談話室 2010.3.10 より)
七尾訴訟控訴審結審直前  西松建設が被害者団体と和解に合意!(2009年10月23日)
 19日で強制連行七尾訴訟の控訴審が結審したことが報じられました。私は、高裁の法定で傍聴していました。サンフラシスコ講和条約の枠組み論という理屈で、中華人民共和国も中華民国と同様に、戦後処理における個人の賠償請求権も放棄したとする最高裁判決に対し、中国の憲法論、国際法解釈からそれは容認できないとする中国人法学者を証人申請していたのです。それが認められなかったため、新たな争点がなくなり、結審を受け入れざるを得ませんでした。裁判長は、その主張は論文等の書証の提出によって提起されているから、直接本人から尋問する必要がないと却下の理由を述べました。
 この訴訟指揮の可能性があったので、先の弁護団会議でこちらの対応を相談して臨んだ弁論ではありました。判決は年度内には下されるでしょう。

ところが・・・・・この結審(実際は)直前に
西松建設が原告と和解に合意していたのです! 
                  毎日新聞記事より
  
2009-10-25 23:19:17 
森かずとし「ワイワイ談話室」記
 故新美隆弁護士が命を込めて法廷で闘った中国人強制連行西松建設事件で、会社が被害者側に謝罪し、基金創設に資金を拠出するという画期的な和解が成立しました!悪名高い最高裁判決では、勝訴した西松建設が、謝罪付きの和解案に合意したことは驚くような展開で、企業イメージの回復という経営判断が働いたにせよ、この間の日中連携の闘いが実を結んだものです。すでに他界した数々の原告の無念が晴らされ、幸存者や遺族には歴史の公正がもたらされることになります。七尾訴訟も厳しい状況ですが、高裁判決に影響をあたえるのではないでしょうか。
〔毎日新聞記事より〕
中国人男性と西松建設が和解…補償基金設け謝罪
2009年10月23日 12時23分 更新:10月23日 13時1分

 東京・霞が関で2009年10月23日午前10時、佐々木順一撮影 戦時中に広島県の建設現場に強制連行されて重労働を強いられた中国人男性8人(生存者4人と4遺族)と施工業者の西松建設(東京都港区)が23日、和解した。西松側が強制連行の責任を認めて謝罪し、2億5000万円を信託して補償などのための基金を設ける内容。戦後補償問題で企業側が自主的に和解を申し出て、補償に応じるのは異例。

 和解金の支払い対象は1944年当時、西松建設の「安野発電所」建設工事現場(広島県安芸太田町)に強制連行された360人。8人は代表して和解に応じた。裁判外で当事者同士の話し合いがついた場合に合意内容を調書にまとめる「即決和解」が同日、東京簡裁で成立した。

 和解条項は西松側が(1)歴史的責任を認識して「深甚なる謝罪の意」を表明(2)2億5000万円を支払い被害補償や消息不明者の調査、記念碑建立などを目的とする基金を設立−−する内容。

 中国人側が西松建設に賠償を求めた訴訟で最高裁は07年4月、「日中共同声明で裁判では賠償を求められなくなった」として請求を棄却し、原告の敗訴が確定した。その一方で、判決は強制連行の事実を認め「被害者の苦痛は極めて大きい。救済に向けた努力を期待する」と自主的な解決を求めていた。

 西松側は「問題は解決済み」という立場を取ってきたが、違法献金事件を機に企業責任を重視する対応に方針転換した。今後、新潟に連行された約180人との和解も目指す。

 西松側の弁護士は同日、「不祥事を踏まえ過去の諸問題について見直しを続けてきた。中国人当事者及び関係者のご努力に感謝する」とのコメントを発表した。【銭場裕司】

 ◇「謝罪うれしい」…中国人側
 中国人側と西松建設側の各弁護士は和解成立後、東京都内でそろって会見し、握手を交わした。強制連行された邵義誠さん(84)は「我々の要求が認められ、謝罪を受けたことをうれしく思う」と語った。中国人側の内田雅敏弁護士は「裁判ではなくても、こういう形(訴訟外の和解)で解決する道筋ができた」と評価し、邵さんは「他の企業と日本政府が全面解決するよう希望する」と訴えた。【銭場裕司】

 ◇中国人強制連行
 1942年の閣議決定に基づき、43〜45年、中国人労働者約4万人が日本に連行された。全国35企業135カ所の炭鉱や港湾施設などで労働を強いられ、劣悪な環境下で6830人が死亡したとされる。和解したのは「花岡事件」で被告になった大手ゼネコン「鹿島」など数社しかない。ドイツでは政府と企業がナチス時代の強制連行被害者に補償金を支払う基金を創設している。


七尾訴訟判決 請求棄却の不当判決2008年 10月31日)
 

3年間の審理の後、31日14:00金沢地方裁判所で判決が言い渡されました。結論は請求棄却の敗訴です。
 倉田裁判長は、「原告の請求は棄却します。国企業に安全配慮義務違反があったとは言え、日中共同声明により、原告らの損害賠償請求権は消滅している。」この間数分間、裁判長は、そそくさと法廷を後にしました。国際法上の戦後処理と国際社会への復帰の過程には、中華人民共和国との間に国民の請求権放棄の合意はないという、五十嵐証人尋問を行った裁判長には期待を込めていましたから、肩すかしに奥歯を食いしばって法廷を出ました。
 
判決要旨判決要旨はこちらから

弁護団声明はこちらから




 判決報告集会には、マスコミも大勢やってきましたが、支援会会員を前に、原告の李変さん、秘書長の王水華さんは、請求棄却の判決に「人の命を命とも思わないひどい判決」「60年も放置し、道徳はあるのか」、「聞きたくもない判決。父は謝罪の意言葉も聞くことなく亡くなった。父の意志を継いで、これからもたたかう」と怒りのコメントを行いました。

 ただ、弁護団による判決の分析は、少し違っていました。この間の判例には明確ではなかった国の責任が、安全配慮義務が果たされなかった責任として言及があったこと、もちろん、その前提に強制連行・強制労働の事実認定をおこなっていること、さらには、五十嵐証人が法廷で行った、最高裁判所判決(西松建設事件07.4.27)で持ち出されたサンフランシスコ講和条約の枠組み論への反論に言及し、苦しい弁明を行っていることは、控訴審への橋頭堡であると。
 そのような国際法の解釈が、世界の潮流に逆行していることを深く論証することが、焦点になるというものです。
 支援の側は、「国家的拉致」を行った日本国家の道義性に対して、政府に対して社会的な訴えを行うこと。一方的な国際条約に対する解釈に対して、中国人民は中国政府を突き動かして外交交渉を促すような国内運動が必要であること。敗訴という結果に落胆するのではなく、闘いのステップを得たものと前向きにとらえ、国際連帯の意思を控訴の形で確かめるために、11月1日、岩淵弁護団長、中田弁護士、角三共同代表とともに、私も中国に報告に出向きます。天津で強制連行被害者関係団体の全国集会が開かれるのです。


ー判決報告は、訪中天津にてー 

  判決の興奮冷めやらぬ11月1日、九時過ぎ発のサンダーバードから乗り継いで、関西空港から北京国際空港へと飛び立ちました。岩淵正明弁護団長、中田博繁弁護士、角三外弘支援会共同代表、そして私です。
 「賠償命令が勝ち取れました!」と報告したかったわけですが、いや、強制連行・強制労働の血の真実が、判決書全体の半分近くを占めて徹底的に認定されたこと、その非人道性は安全配慮義務に反したと、被告企業海陸運送とともに国にも責任があることを認定したこと、日中共同声明による個人の賠償請求消滅論は、最高裁が持ち出したサンフランシスコ平和条約の枠組み論に追従したもので、これから論証する土俵がつくられたこと、これらを原告たちに前向きに伝えようと気を取り直しての訪中でした。

 1945年、生きながらえた被害者たちが仲間の遺骨の一部を携えて祖国に上陸したのが、天津市です。七尾港に連行された捕虜・労工たちも、天津からふるさとの土を踏みしめたのでした。
 そういうわけで、ここには、遺骨を納めた殉難烈士紀念館があって、1998年の訪中調査で私たちも立ち寄ったことがある場所です。今現在は、建物が一昨年に移転し、新しい殉難烈士陵園となって、天津市が建設した新しい立派な労工紀念館となっていました。日本の侵略の犠牲となり、命を落とした労工たちは、抗日の殉難者として歴史に刻まれ、資料整備が進められています。日本の花岡、大阪はじめ各地の調査会、戦後補償にとりくむ団体が、中国の被害者団体(聯誼会)と協力しています。

 今年は、国交のない困難な中を1953年にはじまった遺骨送還運動から55周年。記念集会が大々的に執り行われました。私たちもこの集会に参加し、各地の聯誼会と交流しつつ、七尾の原告・聯誼会員に判決の報告と控訴への準備を行いました。3日の憲法集会のためにとんぼ返りした岩淵弁護団長のかわりに若手の中田弁護士が、報告しました。伝わりやすいようにと言葉を選びながら、中田弁護士は、判決を報告し、事実を完全に裁判所に認定させたのは、高齢を押して日本の裁判所に足を運んでくれた被害者原告のおかげであると感謝しました。素晴らしい一言でした中田弁護士!
 法律や裁判の詳しいことは、農村の人たちにはわかりにくい面があるでしょうが、裁判所でのたたかいはこれからも続くことに、原告家族、聯誼会のメンバーは、気持ちを新たにすることとなったと思います。
 当の原告は、李変さんをのぞき、みな80をとうに越える高齢です。天津には誰も来ることができませんでした。今存命の原告も、残念ながら明日をも知れません。そのため、家族関係を確認し、原告の継承のための準備をしていかなければなりません。一昨年亡くなった王徳功さんの娘婿喬天長、最近亡くなっていたことがわかった郭庭軒さんのお孫さんが遺族としては参加していました。
 土に汗して生きてきた農民には、例えば「81歳」となっていても、生年月日は誰も正確にわからないという状況があります。判決の報告後、原告継承の資格が誰にあるのか、聞き取りしながら家系図に書き出していきました。これらには、私たちが全面的に力添え頂いている老田通訳が近く教鞭を執ることになるという天津外国語学院の学生たちが通訳の課外学習も兼ねて参加しました。10代後半から20歳の女子学生たちにとっては、中国の先人たちの殉難について、知るきっかけになりました。戦後世代は、民族や国の垣根を越えて、手を携えるのです。

 55周年記念集会は、「紀念在日殉難烈士・労工骨灰送還55周年」追悼大会。天津市が協賛し、在日華僑が資金を集め、中国各地から、強制連行被害者聯誼会のメンバーを天津に招待しました。その数三百人。中には、あの靖国神社に対して「還我祖霊」の激しいたたかいを続ける台湾原住民タイヤル族の映画女優、国会議員でもあるチワス・アリさんが招かれていました。交流集会でも、映像化された彼らの闘いが放映され、満場の拍手が送られました。花岡、長崎、七尾からの報告もありました。李変さんがステージに上がりました。戦後補償を求めるアジア被害者たちの厳しい抗議要求は、戦後世代へと継承され、確実に新しい平和と人権の世界を目指す潮流となっていくでしょう。私たちの七尾訴訟もその一環として、歴史に責任を持つたたかいなんだと改めて気持ちを入れ直した三日間でした。

 弁護士費用もまともに払わない裁判に、まさに手弁当で取り組んでくださっている弁護団には、改めて感謝感謝ですし、七尾の聯誼会をなんとかまとめようと苦労を重ねている中国河南省上蔡の農民、王水華さんの心配りには本当に感動させられます。人の真心を教えられます。
 今朝は、4時、彼のモーニングノック、タクシーで北京空港行きのバスターミナルまで送ってくれました。無事、9時20分の飛行機に間に合いました。本当に謝謝。

七尾訴訟結審 最終意見陳述 2008年 3月28日)
最終意見陳述・結審(3月28日 金沢地方裁判所第2法廷)

 3月26日夜、中国原陽県から、強制連行七尾訴訟原告の暢同道さん、暢健飛さん親子がやってきました。中国の農村に住み、80才を越えるおじいちゃんには、海を越える長旅はきついです。それを押して、3回目の来沢です。3月28日、いよいよ七尾訴訟も最終意見陳述をもって結審となるのです。暢さんは、6人の代表原告と聯誼会を代表して最後の訴えを行います。

 3月28日13:30より金沢地方裁判所第2法廷で最後の公判が開かれました。小松基地飛行差し止め訴訟、志賀原発差し止め訴訟、住基ネット違憲訴訟といった大きな社会的裁判の弁護も務める多忙極まりない弁護団が、この間、無償というより、むしろ持ち出しをしながら数度の訪中も挟んで、論理を構築し、今渾身の最終言論を展開しました。
 何よりも原告や遺家族の被った理不尽で不当、残虐な被害事実を直視し、その重みに思いを致して欲しい。被告国が主張する「国家無問責」は破綻している、中国人労働者を厚遇したとする被告企業海陸運送の依拠する事業場報告書(外務省報告書)は、
事実の歪曲、ねつ造は明らか、時効や除斥期間の援用は、正義公平の原則に反する、そして、07年4月27日に最高裁が判示したサンフランシスコ講和条約の枠組み論は、国際法学会でも議論がなく、除外されていた当事者中国にも賠償請求権放棄を適用することには論理上の不備がある。3年間の裁判中に、うまく若手弁護士を弁護団に迎え入れ、次代の担い手をも育成しながら、この最終弁論にいたって、その重要な役割を委ねられた若手弁護士さんたちは、見事に期待に応えて下さった。弁護団長の岩淵弁護士は、最後のまとめで被告会社の人を人間とも認めない扱いは極悪非道であると断罪し、被害者の救済こそが日本の司法の世界に対する道義的責任であることを強調し、傍聴席からの拍手を浴びました。
 最終意見陳述に立った暢同道さんは、84才の高齢ながら、病気や高齢による体調不安で来日できなかった原告の万感の思いを代弁し、自らに降りかかった災難について克明に述べ、日本軍による拉致連行、強制労働がなければ一家の平安は奪われることはなかっただろうと、旧日本軍の戦争犯罪を厳しく告発 (通訳 老田 裕美さん訳)した。そして、公正な判決を裁判長に訴えかけました。最後は、涙ながらの訴えでありました。

 公判後の報告集会は、北陸会館で開催され、学者証人に立った五十嵐神戸大教授も駆けつけ、暢同道、健飛親子、弁護団、さらには、各地から馳せ参じて下さった仲間のみなさんが、ひとりひとり感想を語りました。










 最高裁が到底納得できないような論理を持ち出し、広島西松建設を免罪した後の裁判とあって、勝訴の展望は確かに厳しいものがあります。しかしながら、国際法の五十嵐教授の証人尋問を受理し、サンフランシスコ条約の枠組みに中国も組み込まれているから賠償請求権は消滅しているとの論理は未検証であることを法廷で証言させた倉田裁判長には、この最終弁論の迫力ある主張を真摯に受けとめ勝訴の判決を言い渡してくれる期待を持たせるものです。その判決言い渡しは10月31日。翌日から中国天津市で、強制連行被害者の聯誼会(れんぎかい・連絡組織)連合の大集会が予定されるとのことです。そこへの七尾勝訴の報告が出来るよう、一同願いを込めています。

 明けて29日、暢原告と金沢の支援会メンバーは、七尾現地に移動し、七尾での結審報告集会に臨みました。七尾在住の二俣共同代表があいさつに立ち、学徒動員で隣地で労務に携わった登間さんも参加されました。
 その後、1977年に七尾日中友好協会が建立した「一衣帯水の碑」、福建同郷会が一昨年に建立した「中国人強制連行殉難烈士慰霊碑」を訪れ、石川テレビの取材が行われました。



 振り返れば1995年に今は亡き北崎可代さんの機縁で生存者馬得志さんとの出会いが生まれ、翌96年には、はじめての訪中調査に出かけました。そこで私たちを最も鋭く射抜くような目でにらんでいた暢同道さんが、顔をくしゃくしゃにして別れを惜しみ、石川の支援者のおかげでここまで来れたと「謝謝」を繰り返し、手を差し出してくれるように心が結び合ったことが何よりもうれしく、国家間も軋轢を越えて、人間同士の心の通じ合いは可能であることを再確認できました。これにまさる平和の砦はありません。

 暢さん親子は、今頃は中国の大地に降りたっているでしょうか。96年以降に出会った生存者は次々と他界し、二次提訴に原告として加わった王徳功さんも昨年亡くなったとの報に接しました。残る生存者には、本当に時間がありません。
 戦後日本に生きる市民として、国家が怠ってきた戦後責任の履行を日本の市民の手で迫る。この意義に立って、今後もつづく訴訟支援に私も引き続き関わっていきます。

支援会第3回総会2007年 7月16日 於 石川県教育会館)
 西松建設訴訟最高裁が、4月22日、高裁判断を翻して、原告に請求権はないとの不当判決を出したことは、全国の関係者、そして言うまでもなく中国の原告たちを強い怒りの渦に巻き込みました。そうした情勢の下、本人原告尋問を終えた中国人強制連行七尾訴訟の支援会は、16日に第3回の総会を開催しました。
 国際法上、中国人被害者個人の請求権が戦後処理の中で本当に放棄されているのか、国際法の観点から学習を深めようと、神戸大学の五十嵐正博教授(前金沢大教授)を講師に招いて記念講演をお願いしました。
 五十嵐さんは、「最高裁判決は、国が人々の生殺与奪の権利を握っているとする近代立憲主義を否定するような看過できない内容であり、勝手な判断をされた中国も黙ってはいないだろう。学者たちの間にシンポジュウムの動きがある。裁判に立ち上がっている人々は、これまでの手続きをさらに着々とすすめていくことだ。」と、語られました。
 ▲五十嵐講演の内容は、こちらからどうぞ。PDF

 ところで、7月26日の裁判進行協議の場に於いて、以前から証人申請していた二人のうち、五十嵐正博さんの学者証人が認められました!田中宏さんが却下されたのは残念ですが、国際法の五十嵐さんの証人を認めたということは、最高裁判決後の地裁判断としては画期的です。希望の光は決して消えてはいません。


原告来日、本人尋問2007年 5月21日、6月1日)
(1)現地視察(5月17日)
 中国人強制連行七尾訴訟も、いよいよ、原告本人尋問を迎えることになりました。5月16日夜、その第一陣として、原告の朱安国さん(81才)、王徳功さん(83才)、遺族原告の李変さん、そして七尾被害者遺族で聯誼会秘書長の王水華さんが通訳の老田裕美さんを伴って金沢駅に到着しました。
 明けて17日は、原告の朱安国さん、王徳功さん、そしておじさんが当時の七尾で死亡した李変さんを車に乗せて使役の現場七尾港に案内しました。金沢からは事務局の大森和子さん、松井潔さんと私が同行し、現地七尾では支援会会長の角三外弘さんが迎えました。王徳功さんは、62年ぶり
の七尾港です。埠頭に立つと、当時
の思い出が蘇ります。引き込みの線路、宿舎の塀、当時憶えた日本語、そして当時流行した満州娘の歌・・・。
 李変さんは、位牌が安置される大乗寺の本堂に上がるなり、嗚咽が止まらなくなりました。どこへ連れられ、何をさせられ、どこでどんな死に方をしたのか、遺族は一切知らされず、そしてもちろん遺体はおろか、遺骨さえ未だに戻ってきてはいない。人道というものがあるなら、これ以上人道にもとる仕打ちはないでしょう。国籍や民族が違っても、温かな赤い血が流れている人間の扱いにこんな差別があることに憤らない人はいないでしょう。そして、それが正当化される戦争を肯定する人はいないでしょう。
 李変さんのおじさんであり、七尾で亡くなった李四さんと一緒に働いた朱安国さん、はじめて大乗時に安置される位牌に相対した王徳功さん、そして強制連行被害者の亡きお父さんを思って王水華さんが、次々と位牌に深々と頭を下げ、手を合わせました。

 位牌が安置されてきた大乗寺は、先代の住職さんが人道的な人で、港の労働に耐えられなかったり、病気に倒れて亡くなった中国人労工の遺体を弔い、その位牌を追悼してこられました。七尾港沿岸にある「一衣帯水の碑」前(一衣帯水=一筋の帯のようにたとえ海に隔てられていても、兄弟のように固く結ばれた近隣の間柄の意)では、今も碑前祭が行われていますが、現住職さんは、読経を続けて下さっています。
 原告一行は、深い感謝の気持ちを住職に伝え、聯誼会会長の馬得志さんをはじめかつての労工たちと交流があり、「大人」と慕われた近藤理髪店を訪問しました。
 「カンシー」と可愛がられた当時の娘さん近藤幹子さんが、4人を歓迎して下さっいました。風呂に入れず、臭く汚れた衛生状態の悪い労工たちに、行水をとらせ、「中国人だからといって差別しなかったお父さんの気質を受け継いだ幹子さんは、12年前にはじめて馬得志さんが七尾を訪問したときから、変わらず心をかけて下さっています。おじいちゃんたちの体をさすって、その労をねぎらう幹子さんでした。

 先程述べた「一衣帯水の碑」い一行は移動しました。裏面には七尾で亡くなった15人の労工の名前が刻まれています。おじさんの名前を見つけ、李変さんは、ここでも号泣してしまいました。王徳功さん、朱安国さんは、静かに手を合わせました。
 急な雨に降られ、記念撮影もそこそこに、労働現場の視察に移りました。矢田新埠頭、そして宿舎であった華工管理事務所跡地に立ちました。当時とはすっかり風景が変わってしまいましたが、残っている鉄道の線路には、はじめて訪れた王徳功さんも記憶が蘇ってきたようで、「満州娘」の歌が口をついて出ました。


 当時の写真や地図を指し示しながら、記憶をたぐり寄せる作業が入念に行われました。62年前の出来事です。記憶の細部はどうしても混濁しがちです。でも、現場に立つことで、それが蘇り、思いがこみ上げてくるのです。原告本人尋問は、審理の中で私たちが最も重視しているものです。港では、船、荷役の場所を確認し、船の高さや荷物降ろしの労働、足元のこと、天気のことなどを聞き出していきます。宿舎跡では、当時の写真を見てもらい、線路との位置関係を確認します。宿舎の壁や中の様子を思い出してもらいました。皆の顔が厳しいものに変わっていきます。5月21日の尋問に向けて、一つ一つ積み上げていきました。
(2)原告証言会(5月19日 於 石川県教育会館)
 尋問を二日前に控え、予行演習を兼ねて原告の証言会が開かれました。

 まずは、人前での証言には、これまでに経験のある朱安国さんが、トップに立ちました。

▲朱さんの証言内容は、こちらからご覧下さい。
PDF


 次は、はじめて不特定な人の前で証言をする王徳功さんです。王さんとは、2005年秋の訪中で、新たな生存者としてはじめて出会い、しっかりした記憶で力強く語って下さった方でした。62年ぶりの日本、七尾そしてはじめて訪れた金沢で、期待通りに証言をして下さいました。彼は、イチ、ニ、、サン、シ一、バカヤロウ、ゴクロウサンなどの日本語をよく憶えていて、当時の監督者の口癖をリアルに伝えてくれました。
          
          ▲王さんの証言内容は、こちらからどうぞ。PDF

 三番目は、李変さんです。李さんは、おじさんに対する思いがとても強く、その感情が言葉と体全体からほとばしるような人です。強制連行の理不尽さや今日までの日本政府、被告会社の無責任な対応に、心底からの憤りをぶつけるような証言でした。

▲李さんの証言内容は、こちらからどうぞ。PDF

(3)原告本人尋問(5月21日 於 金沢地方裁判所)








 いよいよ満を持した原告本人尋問です。私は、前日芦原温泉で泊つきの学習会があり、朝一目散に金沢地裁を目指しました。9時、傍聴の方々が、地裁ロビーに集合していました。七尾訴訟初の本人尋問。おじいちゃんたちは、思いの丈を裁判官に向かって、しっかりと訴えてくれるだろうか、誰もが固唾を呑んで傍聴席から法廷を見守りました。
 でも、心配は無用でした。歴戦の社会派弁護団のサポートを受けて、堂々と、鮮明に、過酷な拉致連行、死と隣り合わせの「労工収容所」での生活そして七尾での非人間的な扱いの記憶を呼び起こし、裁判長に向かって「公正な裁き」を真摯に訴えました。裁判によって歴史に光を当てて欲しいと力強く証言を締めくくりました。反対尋問も力のないもので、裁判長は、時には頷きながら原告の証言に耳を傾けていました。事実の認証に関しては、原告としてほぼ完全成功といってもいい出来映えと、岩淵正明弁護団長が評価しました。
 法理をめぐる厳しいたたかいは、まだこれからです。気を引き締めながら、原告の労をねぎらいました。法廷後の交流宴会は、被害者の第二世代の農民として、農作業の傍ら新しい被害者関係者を捜して奔走してきた王水華が、本当に私たちとの共同作業を喜んで、陽気に酒をつぎ回っていました。
 22日、朝、金沢駅発のサンダーバードに乗って、中国のおじいちゃんたちは帰っていきました。人権に国境はありません。弁護団も数度私たち支援組織と一緒に訪中し、まさに弁護士自らお金を出して、生存者や遺族の心の底からの訴えに共感してきました。裁判長の心に響くものがあったに違いありません。
 国、七尾海陸運送に勝訴することはもちろんですが、「平和に優る福祉無し」草の根が連帯し、戦争の芽をつみとること、人間同士が心を通わせることが、権力の戦争願望を抑え込む力になると確信して、見送りの手を振り続けました。 


七尾港矢田新埠頭での現場検証2007年 2月7日)
 今日(2月7日)、被害者原告を招いて、当時の現場、七尾港の埠頭、旧宿舎跡地で、中国人強制連行七尾訴訟の現場検証が行われました。私は訴訟支援会の立ち上げに参加してきましたが、この半年間は自治体選挙闘争の準備のため、事務局の皆さんと原告代理の弁護団にすべてをお任せしてきました。でも、今日の現場検証は是非立ち会いたいと思い、東奔西走の足を七尾まで伸ばしました。

 1996年に訪中したときからのおつきあいの原告暢同道さんが、62年ぶりに現場に立ちました。当時の気象条件、埠頭の位置、当時の着衣、宿舎の様子、労働の実態、食事の実態、衛生状態など弁護人の説明に時折暢さんが補足説明を加えていきました。
 報道されるものと思いますが、事実は消し去ることはできないのです。賠償責任の認定の有無が重要な争点になると予想されますが、各地の同趣旨裁判では、判断が揺れています。日中両国の市民連帯と協働による戦後補償が裁判の基本的なコンセプトです。
 異常な暖かさとはいえ、埠頭の日陰は寒さが凍みてきました。その中で身じろぎもしない屈強な暢さんが、目頭を押さえるハンカチを終始手放さなかった光景が目に焼き付きました。


6度目の訪中調査から6度目の訪中調査から
                                 
2005年11月2日〜6日)
 あの戦争末期に石川県の七尾港に強制連行された馬得志さんら4人の中国人生存者が、国と七尾海陸運送を相手に謝罪と損害賠償を求めて、昨年7月19日、金沢地方裁判所に裁判を起こしました。ご存知の方もいらっしゃるでしょう。第1回弁論が既に11月28日に開かれ、原告の一人、朱安国さんが法廷で自らの体験と思いを意見陳述しています。私自身も、この問題を調査するメンバーとしておじいちゃんたちと10年来のおつきあいがありますし、訴訟を支援しています。

 さて、私自身6度目となる今回の訪中調査では、河南省の農村上蔡県の村で、弁護士さんと共に王徳功さん、劉老貴さんという新たな生存者と初めてお会いし、当時の体験を聞き取りました。また、王さんの自宅を訪問し、帰国後の苦労を共にしてきたお連れ合いにもお目にかかりました。村人も出迎えての歓迎を受けました。60年間つつましく暮らしてこられた様子がよく想像される訪問でした。

1944年11月から翌年の敗戦にかけて、七尾港に合わせて399人もの中国人が労工として拉致連行され、荷役労働に従事させられていました。政府が業界と一体となって、閣議決定による国策として中国人の移入を推し進めたのです。過酷極まりない重労働に加え、暴力的な虐待、劣悪な宿舎環境、粗末な食事、不衛生な生活によって多くが病に倒れ、命を奪われました。1年足らずの間に、死者15人、64人の失明者を含む眼病307人、皮膚病179人を出すなど、悲惨な数字がそれらを物語っています。また、生還しても、家族を失ったり、後遺症のため十分働けないことなどが原因で苦難の人生を歩まねばなりませんでした。
 「人権の世紀」、「アジアの時代」に踏み出そうとする21世紀にあって、当時の国と当該企業が犯した戦時国際法にも違反する戦争犯罪に対し、自己正当化は許されません。日中間の政治は今冷え切っていますが、両国民衆にとっての平和の砦は、何と言っても普通の人々同志の相互理解と友好交流にあります。金沢市も姉妹都市蘇州市と交流を深めています。日本の市民自身の手によって歴史の闇に光を当て、真の人間の絆を築く事業に貢献したいと考えています。


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