「父敏男の人生航路」

本当に父は逝ってしまった
 私的な追想にお付き合いいただくのは恐縮ですが…
 父森 敏男は、3月20日土曜日の21時27分に息を引き取りました。享年87歳と半年の生涯を閉じた父の通夜・葬儀に、ご高齢と新型コロナ禍を押して、ゆかりある方々も多数参列くださいました。この場を借りて深く感謝申し上げます。初七日を終えてもまだご挨拶の途上ですが、「父敏男の人生行路」をここに記して一つの区切りとしたいと思います。
 「この心臓でよくここまで生きてこられた。奇跡的です。」主治医の感慨でした。父は、2001年の9月、大ファンの阪神タイガースの巨人戦をテレビ観戦している最中に、心不全の発作に見舞われました。ひいきの野村克也監督率いるタイガースがダブルスコアで外ならぬジャイアンツに負けていることに腹を立て、「野村、お前なんかやめてしまえ!」と激高したときに、発作が襲ってきたと母から緊急連絡が入りました。もちろんこれは事後談です。その時の電話は「早く来て、早く来て、お父さんが・・・」でありました。駆け付けた時の父は、左手で宙を掻くような仕草さをしながら上体を起こしては倒れを繰り返していました。
 病院に救急搬送された父は、心臓発作が引き起こした脳梗塞を併発していました。梗塞としては重篤の部類と診断されましたが、一命をとりとめました。搬送先の適切な緊急処置のおかげでした。しかし、父は、右半身が麻痺し、言葉を失っていました。このとき68歳。父の半身麻痺の後遺症との足掛け20年の付き合いの始まりでした。
 一年近くの入院とリハビリを経て、父は、4点杖からやがて1点杖を使って自力歩行し、片言の言葉を発するほどに回復しました。理学療法士のご指導と本人の不屈の精神力、熱心なリハビリの積み重ねの賜物でした。その生きようとする意志の源泉は、それまでの68年間の人生に凝縮しているように思います。
 
父は、1933年昭和8年9月29日に生を受けました。幼少期はまさに戦争の時代で、国民学校一期生となったようです。父からは戦時中の話はほとんど聞くことはありませんでしたが、祖母からは、実家の志賀町から米を譲り受けて帰ってきた道すがら、犀川大橋の交番で巡査にコメでも背負ってきたんやないかと呼び止められ、大橋の欄干によじ登って「うら、これ持って帰らんと飛び降りんなん。」と言って見逃してもらったという話をよく聞かされました。
 父は、戦後の新制中学校は泉中学校に進み、卒業後は文具店やうつのみや書店に丁稚奉公に入りました。父はそこで出会った年かさの先輩と二人で文房具の卸問屋を立ち上げます。以来退職まで商売人として人生を送ります。5年前に他界した母タチ子は、現在の白山市美川の農家の10人兄姉妹の第4子として生まれ、やはり中卒で染色会社の女工となって金沢の柿木畠工場に通いました。そこで、父と見合いで結婚し、私と弟をもうけます。
 
 幼少時分の記憶は、父の得意先回りに一緒に連れて行ってもらい、白峰の本と文房具の店で付録付きの少年雑誌をもらったりしたこと。母は朝早く汽車で美川工場に通い、夜帰ってきて白菊町にあった北陸冷蔵の温排水で洗濯するのについて行ったことです。両親共稼ぎの日々、私たち兄弟は明治生まれの祖母に厳しくも温かく育てられました。
 
しかし、父のフィールドは家ではありませんでした。父に抱かれている写真を探すのが難しい。それくらい、父はその人生の時間のほとんどを地域社会での活動に費やした人でした。葬儀に際し、父の在りし日の写真を探している中で見つけたメモにその一端が書かれていました。
 青年団活動の後、24歳で中村校区の公民館委員を引き受け、やがて体育指導委員を務めます。以後、数十年にわたる活動です。育友会役員もしていた記憶があります、私が二十歳を迎えるときは、公民館長でありました。このときに、ご当地音頭「中村音頭」制作に携わりました。
 体育指導委員では、中村町校区の社会体育大会の企画運営に精力を注いでいました。今に続く地域内聖火リレーは、父の発案だと聞いています。県の体育指導委員協議会の責任者も務めていたことが分かりました。
 この体育指導委員の活動は、やがてニュースポーツのゲートボールやグラウンドゴルフの普及活動へと展開します。地域のクラブチームを立ち上げていきます。朝から晩まで準備後片ずけに出ていく父の背中をよく覚えています。その時の仲間たちはかなり鬼籍に入られましたが、よく父を飲みに誘いに来ていました。愉快な気のいい、ちょっと酒癖の面白い方々で、私も可愛がっていただきました。文部大臣賞受賞時の祝賀会の写真が出てきましたが、皆さん我がことのように喜んでいるのが伝わってきます。
 
 父は小柄で、両親とも小柄なことから、私は犀川で拾った子やとよく言われました。もちろん、本気にはしませんでしたが。その小柄の父は、走るとめっぽう早いのです。リレーバトンを受け取ると半周ぐらいの差は追い抜いていくのです。父の弟ふたりと三人で賞品を独占するので、やっかまれたとの話も聞いています。
父はスポーツ万能であったようですが、スポーツの軸は、野球とソフトボールでした。早朝野球のニシナガスポーツ、町内中心の千日クラブソフトボールクラブ、中村体育連盟ソフトボールクラブ、いずれも監督・プレーイングマネージャーでした。大会について行って、選手にキャッチボールの相手をしてもらい、試合後の慰労会を楽しみにしていました。私が野球少年になっていったのも自然なことでした。
 
 
 
 父の活動興味は、スポーツにとどまりませんでした。謡、民謡、日本舞踊、手品、麻雀、やがて、民舞、新舞踊とジャンルを広げていきます。小さい頃の記憶は、父は盆踊りになると、櫓の上の人でした。子ども会や婦人会での盆踊り練習は、決まって父でした。私は踊りは今一つ関心が強まりませんでしたが、父は、民舞・新舞踊の中村梅也社中に参加して、還暦を越えて名取「中村敏峻也」を襲名し、華やかな発表会のステージで躍動しました。
 
 こうした地域活動と様々な趣味の合間に、父は、交通推進隊員として、登校時の子どもたちの交通安全指導に立ちました。夜は地域の会合、友人たちとの交際。一体いつなん時間寝ているだろうかという毎日が、父の心臓に負担をかけていました。拡張性心筋症で動機息切れに悩むようになります。階段で息が切れる。夜中に動悸で目が覚める。8月末の法事の時に、体調の異変について兄弟での話題になったのを思い出します。そして、あのタイガース戦がやってくるのです。
 
 68歳までの父の人生とそれ以降の人生とでは全く正反対のものになってしまいました。俊敏な運動神経と多種多様な芸能にセンスを持ち、人の前で論じていた父が、一種にして半身まひとなり歩行もままならない状態に陥り、言葉で意思を伝え難い境遇になった。その心中は、もどかしい表情や、時折見せる感情の爆発から推察して余りありました。
 
 私が教員を中途退職し、市議選に出馬する意思を固めたとき、気管切開状態の父にそれを伝えることに、母は激しく動揺しました。また発作が起こるに違いないと。
 それから15年もの間、母に専ら介護を依存し、母の健康をもむしばませてしまったことは、5年前に母の死に直面して取り返せない後悔となりました。
 
ところが、母亡き後の父は、むしろ自立度を高めていきました。あれだけ拒んでいたディケアに週に3度も出かけ、麻雀の友人に恵まれました。用を足すことも自分で。使える左手一本で上下とも服を着替えるようになりました。夜はこうして一人で就寝するのでした。私たち夫婦と弟は、一日の終わりに実家を訪れ、買い物、ごみ出し、安否を確認する日々が5年続きました。
 
 父は母の死に言葉にならない思いを抱いていたと思います。それが気丈にも一人暮らしを頑として譲らなかった最晩年を支えたように思われます。3人交代された主治医の先生には、的確な治療で20年間の生涯を生み出していただきました。デイケア、ヘルパーさん、訪問リハビリ、訪問看護師の皆様には本当に温かく助けていただきました。感謝の念は言い表せません。
 一時的な心不全の悪化、肺炎で入院することもありましたが、その都度回復を果たし、日常生活に復帰してきました。しかし、11月末から食事が進まず、水分摂取などが過多となり、2月5日に心不全による一か月の入院となりました。これも自力歩行ができるまでにいったん回復し、願いであった自宅帰還とデイケアを果たしました。
 でも、これが限界でした。持病の心臓と腎臓が悲鳴を上げていたのです。3月5日早朝に救急搬送。常人の6分の1の心臓機能。排尿がほとんど止まった腎不全。3月9日には、親戚を呼び寄せました。私も、いざというときは11日の議会質問を優先することを家族に了解してもらいました。しかしながら、この危機は奇跡的に回復します。いったんは酸素マスクも外れました。快復への期待が高まりましたが、それは叶わず、ろうそくの火は消えかかっていきました。
 
3月20日、新型コロナで往来を控えてきた富田林に住む私の二男の悠樹の子ども(亮斗、菜月・ひ孫)が、面会にやってきました。(写真は2020年正月の帰省時)緩和ケア病棟は、この面会を許可してくれました。妻の話では、荒い息の下でも、二人のひ孫の姿にうなずいて応えていたということです。新宿駅ビルのアパレル店を切り盛りする長男とは妻のライン電話で面会できました。私は、父の手をさすり安息を願うよりほかはできませんでした。
 
 父はこうして永眠しました。
天寿を生き切ったものと思います。
 
 父は商売人であり、金沢の地域コミュニティの保守的な空気の中を生きた人でした。私は教員となってからも政治的な考え方がぶつかり、三度目の激しい衝突で親子4人で実家を出ました。それなのに、出馬の際には、住所を実家に戻し、「森 敏男の長男です」と名乗って地域で挨拶を始めることになりました。結局は父の足跡を踏んで私も進んできたことになります。
そうしたわだかまりも次第に溶け、後援会行事で病後初めて人前に出てくれた父でした。
 
 通夜・葬儀を通じ、参列の方々から父にかけていただいた言葉の数々を反芻しています。小さい背中は大きかった。この背中を越えられるのだろうかと。息子の宿命かもしれません。
 
 長々と書いてきましたが、最後までお読みくださった方には、感謝いたします。妻には負担をかけてきました(謝)。父とかかわってくださったすべての方々に心より感謝を申し上げて、この私的な追想を終えます。ありがとうございました。
 
あすからは、私も日常に戻ります。(2021年3月29日記)