東京大空襲で最も焼かれた板橋は軍都であったー都市間交流二日目ー

東京大空襲で最も焼かれた板橋は軍都であった

12540798_590555804429788_4442791821649671259_n[1] 「もてなしたい」のボランティアガイドさんに、加賀藩の下屋敷跡地を二時間案内して頂いた。参勤交代は、北国街道から追分で中山道に入り板橋に至る。公園、橋、地番、学校、保育園などあちこちに「金沢」、「加賀」の名が付されている。12631291_590555821096453_4119234342652242079_n[1]

 そして、ものづくりのまち板橋は、加賀藩の火薬製造所から、明治以降は陸軍造兵廠火薬製造所に転身した軍都であった。そのため、東京大空襲では、ピンポイント空襲を受け、最も大きな被害を受けたという。日本海側の軍都金沢も、空襲計画に入っていたが、紙一重で免れた。これからの平和都市の在り方を考えさせられる。
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 板橋区とは、少年野球、観光ボランティアガイド、祭りなどの交流事業が息長く続いている。新幹線時代の密な官民相互連携に、議員間の共通の思いが確認できた。
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