母への鎮魂歌

image1 81歳。母タチ子が他界しました。20日に葬儀を終え、母の人生を記憶に止めたく拙文を書いてみようと思い立ちました。長文お読み下さったら有り難く思います。

 7月17日14:20と死亡診断書に記載されています。というのは、その瞬間は、後援会行事犀川クリーンウォーク・懇親会の後始末から実家に戻ったその時でした。病室を空ける私たち夫婦に代わって病室に付き添ってくれていた弟も気がつかないほどの急変の静かな最期だったと聞いています・・。

 病知らずで、心不全から脳梗塞に倒れた父の介護を14年間一人で引き受けてきた母が、不調を訴えたのは正月の二日朝でした。前日元旦のお祝いに家族が集まったときも何も言わなかった母が、一言「ものいがや。」と当惑した声で私の携帯に電話してきました。おなかが張ってものが食べられない・・・」その状況は、少なくとも1ヶ月以上は続いていたようです。毎日のように顔をみていたのに、気づいてやれなかった・・・。悔やみました。
 当番医を探し、翌日夜には、父がかかってきた城北病院を受診しました。「腹水の原因を調べないといけませんね。」この三日の夜から母は、入院生活を送ることになりました。診断は大腸ガンによる亜閉塞とガン性腹膜炎でした。診断結果の告知と治療方針の説明を聴く母は取り乱し、「もう死んでもいい・・何もせんといて・・」と治療方針にも即座に同意できませんでした。
 それでも、病室に戻って気を取り直した母は、人工肛門手術を受け入れ、摂食して体力を回復させる医師の方針に同意しました。また、主治医の大腸ガンへの抗ガン剤の副作用は比較的軽く、髪の毛が抜けることもめったにないとの説明に「髪の毛が抜けないんなら」と笑顔も見せました。9人の姉妹の中で一番おしゃれだったと後から姉妹たちから聞かされた母の一面が表れていたんですね。

 でも私たち家族は、抗ガン剤の副作用を重視し、抗ガン剤治療ではなく、玄米雑穀を中心にする完全食事療法を選択し、信頼を置ける薬剤師さんの指導を仰ぎ、2月19日の退院からとりくみ始めました。しかしながら、食べられる量が徐々に減っていき、訪問看護と往診による点滴栄養補給で体力回復に望みをつなぎました。5月24日、増してきた腰周辺の痛みに対処するために、母は、いやがっていた再入院をすんなりと受け入れ、再度城北病院に入院しました。それから、緩和ケアの二ヶ月、医師、看護師さんたちの真心のこもったケアに本当に深く感謝する日々でした。
 私たち夫婦と弟は、正月の母の入院後、介護を必要とする父のサポートのために交代で実家に泊まり込み、2月の母の退院に併せて、父に拒絶してきたディケアへの通所を説得し、夕方にはヘルパーさんの派遣をお願いして、在宅での看護の体制を何とかとってきました。母が望んだディサービスセンター「マナの家」への通所は生き甲斐になり、状況が悪化してからも自分からは欠席を言い出さなかったほど懇切な対応をしてくれました。介護福祉サービスのありがたみが身にしみて実感されました。職員の皆さんに心から感謝しています。
 母再入院後の6月始めからは、妻が学校の介護休暇を取得して、母のそばに付いてくれました。これなくして、参院選の運動に専念することはあり得ませんでした。妻の献身にも深く感謝しています。

母タチ子3 母は、1935年2月23日、戦争の時代が本格化していく最中、美川町(現在白山市美川)の農家で、10人兄弟(内9人が女)の4番目として生まれました。母タチ子4地元の中学校を卒業して、美川に本社があった福田染色に就職しました。そこで、文房具の卸しの仕事に就いていた父と見合い話になり、結婚して金沢市柿の木畠の工場に移動して、私たち兄弟を生んでくれたのです。祖母は授乳のために、私を工場まで毎日おぶっ母タチ子10て通ってくれたと聞いています。           

 

 母は、48歳、私の長男が生まれて退職するまで、金沢から汽車・電車で美川の本社に通い続けた「職業婦人」の人生でもありました。会社母タチ子12の慰安旅行で私を抱いて写っているスナップ写真がたくさん残っています。そしてその当時からの親しい友人方が、最期まで母を気遣い、何度も見舞ってくれました。

 

 母の病気から死に向き合うまで、私は、母の人生はずっと苦労の連続だったと思っていました。

 幼心に、祖母にきつく当たられ、苦しんでいる母の姿を憶えています。ある時は、私たち兄弟が面白がって祖母の口まねをして仕事帰りの母に向かって「○○○・・・」とはやし立てると、耐えられずに二階へ駆け上がって行ってしまいました。仕事帰りからの家事、夜物騒だからと用水や家から離れた洗い場での洗濯に私たち兄弟でついて行ったこともよく憶えています。それでも狭い家の二階で七夕飾りを一緒に書いてぶら下げたこと、「小学○年生」の付録を一緒につくったこと、美川の実家に連れて行ってもらって、いとこのお兄ちゃんや母の妹のお姉ちゃんたちにかわいがってもらったことが懐かしい。
 そんな母に、私は何度か泣く思いをさせました。25年前、父と政治的な考え方の対立から破局的なけんかになり、親子4人実家を飛び出し、山科に別居しました。子どもたちからは、「おばあちゃんが可哀想」と痛烈に批判されました。二人の幼児には温かく包み込んでくれる優しいおばあちゃんだったんです。
 次は、教員をやめ、政治家になることを決意したとき、父が倒れ、病院に通い詰めていた母に「お父さんにそんなこと言えん・・・。」と言わせるほどに当惑させました。
 さらには、2012年末、あの衆院選挙時の選挙違反被疑者となり実家も家宅捜索をうけました。何も伝えていなかった父、母にいきなり令状を持った刑事がやってきたんです。母は、「あなた方は本当に警察の者か?証拠を見せなさい。」「なんで来るなら前に言わないのか。」「うちの子が、悪いことをするはずがない。」こう言ったら、しばらくして「先に言う訳にはいかないんです・・・おっしゃる通り、何もありませんでしたと、すぐに帰っていった。」こんな武勇伝も聞かされました。母は強し。結果として私は「文書頒布の事前運動により、公民権停止2年」の略式命令を受け入れ、2013年4月1日金沢市議会議員を辞職しましたが、同志が安倍政権誕生を阻止するために2区小選挙区に立候補し、その同志と世の中のためにと勇み足となった私の心を、このときには両親は深く理解してくれていたと思います。
 2年後の復活まで、父も母も地域の応援者に様々に配慮し、陰から私を支えてくれていたことをよく知っています。とりわけ母にとっては、人前で話したり、政治家の親として振る舞うなど別世界のことであったに違いありません。どれだけの気苦労があったことかと思います。

母タチ子13 でも、母が入院し、見舞ってくれる友人の方々や兄姉妹の様々な話から、また母本人の言葉から、母は、母だけにしかない世界に豊かに生きてこられた人であったと確信できました。そう言えば、手先が器用な母母タチ子17は、父の闘病後も手編み教室で熟達し、展示会への出品を欠かしませんでした。私も数着のセータを編んでもらいました。若い頃は町会の糸巻きリレー選手として大活躍した母は、晩年はグランドゴルフチームに所属し、何度かホールインワンの自慢話を聞きました。カラオケでは川中美幸。お茶の高橋社中に入れてもらって、近所の方がたと懇親を深めていたことも。
母タチ子18 今日も挨拶回りで、母とのお茶席での対話が楽しみだったと聞かされました。また、別の方からは、「去年の秋。歩き疲れて橋のたもとにもたれていた私をタチ子さんが自宅まで連れてきてくれて、『付いてこさせてもらってうれしかった。』と言ってくれた。私よりも年下のタチ子さんが先逝ってしまうなんて・・・」と深々と頭を下げられました。
母タチ子20 この愚息がまったく気づいていなかった「おしゃれな母」は、ピンク色が好きで、ハンドバックをいくつもタンスに入れ、着物がびっくりするほどあった。今となっては遺品となったそれらを発見した妻は、母の一人の女性としての人生を垣間見たと言っています。

 入院中、付き添っていた妻を芸人並の軽妙な受け答えで苦笑させた母タチ子19母。痛みに苦しんだ最期の二ヶ月は、母の多面的な素顔を知らしめてくれる時間でもありました。痛みを緩和するための投薬が意識を後退させ母タチ子22るようになってからは、盛んに感謝の言葉を繰り返すようになりました。それが「有り難うございます。」から「有り難うございました。」に替わっていきました。おそらくは、自分の死期が近いことを悟っていたと思います。参院選の期間中は、その合間を縫ってしか病室に顔を出すことができなくなりました。遊説や集会の報告をすると、「ご苦労様」とねぎらいの言葉をかけてくれました。手を握ると、「あら、熱い手やねぇ」と気持ちよさそうに目を閉じました。振り返れば、母の手を握ったこともなかったな・・。急変に備えて病室に夜も泊まり始めた15日。痛みに声を上げる母が投薬で楽な表情になると、静かに額をなで、手をさすりました。私にはそれしかできませんでした。
母タチ子23 17日の最期は思いの外早くやってきました・・・。仕事帰りに汚れた作業服のまま毎日病室に足を運んでくれてきた弟健二が、16日の夜から病室にいてくれました。最期の時が独りにならずに迎えられて本当に良かった。言葉が不自由な父は、車いすから手を伸ばし、言葉を掛けながら何度も母を撫でていました。万感の思いであったろうと思います。

 大橋巨泉さんが遺した遺言が話題になっています。母の最期の政治参加は、7月10日の院内投票でした。そしてこれが絶筆となりました。「しばた未来、福島みずほ」
 著名人ではないけれど、母も、きちんと意思表示してくれました。まるで、参院選挙と後援会行事が終わるのを待って旅立っていったような・・いえ、きっと息子に存分に行動させてやろうとの思いでぎりぎりまでがんばってくれたんだと思えています。

 家族を繋ぎ、人をつないだ母に静かに手を合わせ、「有り難うございました。」

 そして、葬儀を終えて母の最期を彩ってくださった多くの方々に感謝します。