県教組金沢支部定期大会

県教組金沢支部定期大会

 6月1日。今年も、私のふるさとのような県教組金沢支部の定期大会に出席しました。

 核心に触れる討論がありました。教育労働組合にとっての自主研究運動の要否についてです。

 多忙な中で優先順位をつけるのか?なくすことが組織拡大に?

 後輩たち、若い世代と意見を交わしたい。その思いがさらに強くなりました。

【SNSでの対話より】

■多忙は何とかしなければなりませんが、多忙を回避の理由にし てはなりません。結局、教育労働者としての確信は得られず、労働疎外が深まるでしょう。たたかわねば。また、たたかうことは楽しく、自分を深いところで変えてくれます。子どもの前に立つ人格としての資格が高まります。(森)

■自主研修は必要でしょう
石川の教育は、今への対処療法と問題を見ようとしない臆病でいじけた自己中心主義の為に崩壊しているのです
本質を見極めれば組合の在り方はシンプルです
前進するから後退しない
現状維持や後退をするならそんな組織の存在意味はありません
勇気を出して本質を極めていくべきですね

■森さんのコメントがとても深いです。教育労働者としての確信。そんな議論をする場がないですね。

■政治塾、政治スクール、自治スクールなんてね。昨年から議員インターンシップで学生を4人受け入れて、面白かったです。(森)

■いいですね。政治家という仕事ももっと魅力のあるものでなければなりませんよね。ヨーロッパでは、政治家は魅力のある職業だと聞いたことがあります。日本では、すべてを犠牲にしないと政治家にはなれませんからね。

■全体として、教研らしさがなくなっているからではないでしようか? それは職場の中の実践( 学校づくり、学級仲間づくり、授業)にあってこそ、若い人たちが実感できるのだと思います。(森)

■上記の対話が刺激になり、自分の思いを表明したくなりました。                                            いわゆる「教研」というものが、外での集まりとしての「教研」を指しているということがどうなのかということです。おそらくそれぞれがそれぞれの意味で「教研」という言葉を使っているのではないかと。おそらくかっての「教研」にはもっと底流があったのではないか。かって様々な民間教育団体が活発に活動していました。数教協、歴教協、日本作文の会、あるいは齋藤喜博、林竹二といった人たち。太郎次郎社の「ひと」、仮説社の「たのしい授業」。現在の教育がそれでいいのかという根底からの疑問からの発想。そういった根底が、底流があっての教研ではなかったのか。レポートを作る際にもそのレポートの議論に参加し、ああでもないこうでもないと、その書かれたものからその人のかいたもの以上のものを読みとって対話していくというそのプロセス。「教研」の日だけが「教研」ではなく、その前後、プロセス、その底流も含めて「教研」ではなかったのかと。その根底として、今自分のやっていることがこれでいいのかという教員の迷い、戸惑い、疑い、自己反省というものが根底にあったのではなかったのかと。「教研」という言葉を用いた時、かって何をさしていたのか、そして、今何を指しているのか。抽象的な言葉は常にその抽象と具体の往復が必要であり、抽象的な言葉の具体は何を指しているのか、このあたりが対話の中でやりとりできて対話が成立していくのではないか。様々な疑問、様々な思いの中で、どう相手に伝わるような言葉を用いて伝えていくのか。様々な思いが今自分の中によぎっています。

■教員免許更新制の廃止で研修歴の記録が義務付けられます。自主教研、民間教育団体の研究会等も認めさせる闘いがないと、また、多忙化を嘆くだけになります。頑張らねば。

■私は、戦後の平和のための教育(広い意味での平和教育)を担うために、教職員組合がどうしても必要だったのが教育研究活動だったと思います。他方、改憲のための国家主義教育を体制化してきたのが文科行政でした。そこに、自主研究、自主編成、教師の教育の自由、子ども主体の(自立した市民、労働者を育てる)教育と国家主義の対立点がありました。いえ、今もあります。この意識や自覚を共有する組合活動全体を通して、教育研究活動の意義が理解されていくと思います。そのための徹底した対話や討論が必要です。
それを問題意識化し、実践に移そうとして奮闘している組合員を掘り起こし、連帯し、全体化する取り組みの工夫がいると思います。新自由主義を反転させたような効率化論では、歴史性や思想性を継承できず、組合は烏合の衆と化すと思います。そもそも、教育委員会が課す研究、研修と教組教研が区別がつかない状態になっているから、権力作用の及ばない教組教研が不要論の対象になるのです。(森)
 
■戦前、戦中の日本の歩み、そして、そこにおいて教育の果たした役割をどうとらえ、どう総括するのか。そして、戦前、戦中の反省の上にたった日本の民主化の流れ。そして戦後の民主化の逆コースの流れ。その流れの中での日教組と文部省との関係。戦前、戦中、そして、戦後を
トータルに学んで知ることでいわゆる「教研」についても知ることになると思います。このあたりをどう共有するのか。様々な課題があります。
 
■時間がないので、改めて、議論に参加しましょう。ただ一言。社会認識を育てるのが教育の重要な任務です。かのドイツでは生涯教育で政治・党派教育、学びの機会を公的に保障しています。それを全社会機能的にサポタージュしてきた日本において、若者の意識が社会や公共に向きにくい状態になるのは当たり前です。だから、教育の主体は、どうするのかを論じなければなりません。民主化闘争により市民社会を発展させてきた韓国で、日本の社民党がなぜ評価されるのか? ドイツや北欧で社民党が政権に関与できるのはなぜか? 私はいつも考えます。教育制度の問題として。
社民党のやりたいことが伝わらないと言われたら、足りなさを反省しますが、他方、主権者として手を伸ばせば情報を得られます。多様な政策が提示されているのですから。政党は政策を発信する責務がありますが、主権者には、選ぶ能動的な責務があると思います。欧米の民主主義は、自ら主張し、その実現のため政党や政治家を育てようと動きます。
主権者教育すら政治の統制下におこうとする日本の公教育の体制下で、教研なき教育が、これを突き破るようなシビル教育を打ち立てられるのでしょうか?
迎合や評論では変えられません。安直な方法もありません。互いに厳しく認識を高め合う社会的な教育論が実践として交わされる場なくして。教研不要論は、体制下の公教育がそのように解放された時に初めて容認されるものと思います。現状においては、私には、極めて子どもたちに対して無責任に思えます。(森)
 
■主権者として手を伸ばせば確かに情報は得られます。しかし、莫大な時間がかかりますし、選挙公報を見てもわかりません。いつも意識していないとわからないですよね。
ドイツのような形ができないのが残念です。このような話をもっと聞きたかったです。ここから議論がスタートだと思います。昨年度の県執行委員会では、一度もそんな話はでず、とにかくやりますだったのです。
いろいろなことを考えると日本人がマスクを外せない理由もわかりました。自分で、主体的に考えていないからです。