神奈川県立津久井やまゆり園での殺傷事件に思う

1神奈川県立津久井やまゆり園での殺傷事件に思う

権利条約批准、障害者基本法改正、差別解消法施行とインクルーシブ社会へと進んできたのではなかったか。今また「優しさ」「思いやり」の連呼が始まるのか? 我が身への振り返りと深い考察が必要だ。

                  ー写真転載は 北陸中日朝刊ー

私の短文のツイッター投稿に、以下の意見が交換され、深められている。

M.Iさん《嶋ひでたけの朝ラジ『ズバリいわせて』=日本放送》と、北陸中日のコラムで、捜査や、裁判とは、別に、多角的な調査!と多方面の考察、学祭的検討が必要で、かつ、それを集約して検討→結論/国民への報告と対策の実施が必要と言っていますね。
その理由として、裁判の過程での十分な真相究明は、自身の例でもそうだったし、極刑必至の情勢の中では、さらに無理ではないかとおもうから、とも言っていますね。・・・

 
2012年2月に、ベルリン・フィルハーモニーホールに隣接するT4計画 (「障害者絶滅計画」と呼ばれた)の被害者を追悼し、歴史に刻むモニュメントを訪れました。精神を病む人が、いかなる回路を通じてその思想に至り、実行に移すことになったのか… 解明されなければなりません。しかし、これを社会的問題として取り上げることを避け、個人の問題に矮小化ようとする圧力がもう始まっているように思います。また、優しさと「共に生きようとする」価値観には相当の開きがあることが背後に追いやられる恐れも感じます。共生の思想は、人権思想の究極です。これが障害者施策、福祉施策にどこまで深められてきたか、厳しい検証も、避けられてはならないと思うのです。
 

E.Mさん  胸を抉られるような思いで過ごしています。共に生きる社会を望み、この襲撃者はどれほどの闇を抱えていたのだろうと思う反面、一方では被害者やそのご家族と同じだけの苦痛を与えてやりたいと心底願ってしまう自分がいて矛盾を抱えています。法整備が進んでも、社会全体としては共生からは遠ざかっているような空気を感じます。私たちの共生を目指す歩みをより確かなものにしていかなければ…との思いはありますが…今はまだ希望を見出せずにいます。

 
森 かずとし 個人として負わなければならない罪があり、その贖罪は義務であることは当然です。しかし、社会が構造として持っている歪みに無自覚ならば、第二第三の不幸が繰り返されるでしょう。人間の価値を功利的に評価する心理は、大なり小なり人々の中に根深く巣食っているし、施設従事者の置かれた介護従事難民というべき扱われざまもまた、功利的な福祉政策を背後に持っています。これにどれだけ多くの人が気付けていかれるかが、事件の検証で最重要だと思います。希望は、自らの中にあるように思います。
 

E.Mさん まだ気持ちがついて行きませんが納得しました。
社会構造の問題と共に、蟻の歩みであっても私たち一人ひとりが自覚を持ち、互いに理解し合えるよう対話を重ね続けていくことも大切なのですね。
 
A.Mさん 簡単には言い切れない自分が居ます。事件は衝撃的でしたが、国の中枢に立つ人たちが、それに近い発言を繰り返している現実。当事者同士で、もっと話しがしたいです。社会全体が寛容でなくなるのは、誰にとっても息苦しい社会になるのではないでしょうか? 人は皆不完全で、誰でも明日どうなるかも分からない、それが生身の人間なのではないでしょうか? かつて、小学校に息子が入学する時、教育委員会に厳しく指導?され、闘った記憶が蘇りました。共生とは程遠いものでした。根は深い! 馳文部大臣はじめ、教育関係者の思いやいかに?
 
M.Iさん 小生の関わったおーぷんはうすにも、障害児や、その親が参加することがありました。 ちゃんと付き合えず、いまもってときどき思い出しています。「共育共生」が、スローガンに終わることなく、個々人の内面的な、他者の悩みを自己の悩みに重ね合わせ、引き比べ消化され、しなやかかつ、強靭な心的構えが成り立ちますように。
 
3A.Mさん 今日の中日新聞のこちら特報部。最首悟さんの文に、同じ親として胸が詰まる思いがした。「この子より先に死ねない。」どの親も少なからずある同じ思い。 しかし、同時に自身の内面の最も弱いものと、向き合わざるを得ない真実も。誰もが悩み苦しみながら、それでも、それでも‥‥。
 
M.Iさん 確信犯は、無罪である、という刑法理論を唱えた東京大学法学部の学者の精神の破綻を描いた小説「非の器」が、思い出されます。
学生/青年時代(70年前後)に読んだ高橋和巳のものです。
森 かずとし 排除の対象になり得るものが、排除の論理に立つ。この深刻な矛盾から脱するのは、連帯しかないと思います。
 
 新自由主義の浸透が、新たな優生思想を勃興させている。共生共学。共に生きる教育を妨げ、分離別学を基本原理として放棄しない特別支援教育が事件の背景にあるとの考察も始まっている。