79年前の南京城占領の日に金沢で

肝胆相照らす友人が79年前の南京城占領の日に金沢にやってきた

1-2 12月13日。79年前、当時の中支那方面軍が南京城を陥落させ、入場した日だ。金沢に本拠を置いた第9師団歩兵第7連帯が光華門から二番乗りした。この刻むべきメモリアルな日に、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館朱成山名誉館長が来沢し講演会を開催した。予想を大きく超え、教育会館大会議室に100人を超える聴衆が詰めかけた。

 朱成山さんとは、13年ぶり5回目の顔合わせだった。彼も、よく私を憶えていてくれた。館長を退任し、中国国学の研究院で現在働いているという。
9 私が初めて大虐殺記念館を訪れたのは1996年8月、七尾中国人強制連行の生存者聞き取りの際だった。南京市内の食堂で朱さんから和やかにもてなしを受けた。「サスペンダー」の館長だった。
翌年からは、各地と呼応し、「南京」60ヶ年金沢連絡会をつくって生存者の証言集会を毎年開いてきた。これらを朱さんは証言者を送り出す側として熟知している。紫金草合唱団の活動もまたしかりである。
朱さんは、こうした事実を直視し平和の橋渡しに取り組む民間草の根活動に期待を示した。南京では、「反日」デモが何故起きなかったのか? 答えはここにあると。

4館長としての歩みは、ゼロからの積み上げであった。日本の右翼からの執拗な攻撃には、史料の厳密な考証で臨んだ。民間の非戦闘員や捕虜一人の殺害も非難されるべきで、数は虐殺の本質的尺度とすべきではないと前置きしつつ、だが数字問題は虐殺の規模と程度に関わる事だから、科学的歴史的事実に基づき考察しなければならないと30万人説の根拠を多角的に列挙した。その姿勢は、確信に満ちて揺るぎない。
 私は、これに戦場、占領は他国中国の大地であったという当たり前の大前提を加えておきたい。

 昨年10月、ユネスコの世界記憶遺産に南京大虐殺関係資料が登録されたことは、歴史学術分野での実証的研究と史14料蓄積が正当に評価された結果と喜びを表した。だが、これは憎悪を煽る意図などなく、歴史的事実を忘れない事が平和を創り出すことに繋がると意義づけした。私も同感だ。
15-2 これに比し、日本政府、政府与党の態度は、子どもじみて滑稽なくらいだ。自国、自民族のアイデンティティに閉じこもる国は、世界から取り残され孤立する。その損失の大きさこそ、民族を貶める。

 彼は最後に、軍国主義の罪悪を民衆に負わせてはならないが、忘却は、再び罪悪を犯させると締めくくった。蓋し。

 

 

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