この訴訟指揮の可能性があったので、先の弁護団会議でこちらの対応を相談して臨んだ弁論ではありました。判決は年度内には下されるでしょう。
ところが・・・・・この結審(実際は)直前に
西松建設が原告と和解に合意していたのです! 毎日新聞記事より
- 2009-10-25 23:19:17
- 森かずとし「ワイワイ談話室」記
- 故新美隆弁護士が命を込めて法廷で闘った中国人強制連行西松建設事件で、会社が被害者側に謝罪し、基金創設に資金を拠出するという画期的な和解が成立しました!悪名高い最高裁判決では、勝訴した西松建設が、謝罪付きの和解案に合意したことは驚くような展開で、企業イメージの回復という経営判断が働いたにせよ、この間の日中連携の闘いが実を結んだものです。すでに他界した数々の原告の無念が晴らされ、幸存者や遺族には歴史の公正がもたらされることになります。七尾訴訟も厳しい状況ですが、高裁判決に影響をあたえるのではないでしょうか。
- 〔毎日新聞記事より〕
中国人男性と西松建設が和解…補償基金設け謝罪
2009年10月23日 12時23分 更新:10月23日 13時1分
東京・霞が関で2009年10月23日午前10時、佐々木順一撮影 戦時中に広島県の建設現場に強制連行されて重労働を強いられた中国人男性8人(生存者4人と4遺族)と施工業者の西松建設(東京都港区)が23日、和解した。西松側が強制連行の責任を認めて謝罪し、2億5000万円を信託して補償などのための基金を設ける内容。戦後補償問題で企業側が自主的に和解を申し出て、補償に応じるのは異例。
和解金の支払い対象は1944年当時、西松建設の「安野発電所」建設工事現場(広島県安芸太田町)に強制連行された360人。8人は代表して和解に応じた。裁判外で当事者同士の話し合いがついた場合に合意内容を調書にまとめる「即決和解」が同日、東京簡裁で成立した。
和解条項は西松側が(1)歴史的責任を認識して「深甚なる謝罪の意」を表明(2)2億5000万円を支払い被害補償や消息不明者の調査、記念碑建立などを目的とする基金を設立−−する内容。
中国人側が西松建設に賠償を求めた訴訟で最高裁は07年4月、「日中共同声明で裁判では賠償を求められなくなった」として請求を棄却し、原告の敗訴が確定した。その一方で、判決は強制連行の事実を認め「被害者の苦痛は極めて大きい。救済に向けた努力を期待する」と自主的な解決を求めていた。
西松側は「問題は解決済み」という立場を取ってきたが、違法献金事件を機に企業責任を重視する対応に方針転換した。今後、新潟に連行された約180人との和解も目指す。
西松側の弁護士は同日、「不祥事を踏まえ過去の諸問題について見直しを続けてきた。中国人当事者及び関係者のご努力に感謝する」とのコメントを発表した。【銭場裕司】
◇「謝罪うれしい」…中国人側
中国人側と西松建設側の各弁護士は和解成立後、東京都内でそろって会見し、握手を交わした。強制連行された邵義誠さん(84)は「我々の要求が認められ、謝罪を受けたことをうれしく思う」と語った。中国人側の内田雅敏弁護士は「裁判ではなくても、こういう形(訴訟外の和解)で解決する道筋ができた」と評価し、邵さんは「他の企業と日本政府が全面解決するよう希望する」と訴えた。【銭場裕司】
◇中国人強制連行
1942年の閣議決定に基づき、43〜45年、中国人労働者約4万人が日本に連行された。全国35企業135カ所の炭鉱や港湾施設などで労働を強いられ、劣悪な環境下で6830人が死亡したとされる。和解したのは「花岡事件」で被告になった大手ゼネコン「鹿島」など数社しかない。ドイツでは政府と企業がナチス時代の強制連行被害者に補償金を支払う基金を創設している。


3年間の審理の後、31日14:00金沢地方裁判所で判決が言い渡されました。結論は請求棄却の敗訴です。
十嵐証人尋問を行った裁判長には期待を込めていましたから、肩すかしに奥歯を食いしばって法廷を出ました。
ただ、弁護団による判決の分析は、少し違っていました。この間の判例には明確ではなかった国の責任が、安全配慮義務が果たされなかった責任として言及があったこと、もちろん、その前提に強制連行・強制労働の事実認定をおこなっていること、さらには、五十嵐証人が法廷で行った、最高裁判所判決(西松建設事件07.4.27)で持ち出されたサンフランシスコ講和条約の枠組み論への反論に言及し、苦しい弁明を行っていることは、控訴審への橋頭堡であると。
支援の側は、「国家的拉致」を行った日本国家の道義性に対して、政府に対して社会的な訴えを行うこと。一方的な国際条約に対する解釈に対して、中国人民は中国政府を突き動かして外交交渉を促すような国内運動が必要であること。敗訴という結果に落胆するのではなく、闘いのステップを得たものと前向きにとらえ、国際連帯の意思を控訴の形で確かめるために、11月1日、岩淵弁護団長、中田弁護士、角三共同代表とともに、私も中国に報告に出向きます。天津で強制連行被害者関係団体の全国集会が開かれるのです。











「賠償命令が勝ち取れました!」と報告したかったわけですが、いや、強制連行・強制労働の血の真実が、判決書全体の半分近くを占めて徹底的に認定されたこと、その非人道性は安全配慮義務に反したと、被告企業海陸運送とともに国にも責任があることを認定したこと、日中共同声明による個人の賠償請求消滅論は、最高裁が持ち出したサンフランシスコ平和条約の枠組み論に追従したもので、これから論証する土俵がつくられたこと、これらを原告たちに前向きに伝えようと気を取り直しての訪中でした。
1945年、生きながらえた被害者たちが仲間の遺骨の一部を携えて祖国に上陸したのが、天津市です。七尾港に連行された捕虜・労工たちも、天津からふるさとの土を踏みしめたのでした。
今年は、国交のない困難な中を1953年にはじまった遺骨送還運動から55周年。記念集会が大々的に執り行われました。私たちもこの集会に参加し、各地の聯誼会と交流しつつ、七尾の原告・聯誼会員に判決の報告と控訴への準備を行いました。3日の憲法集会のためにとんぼ返りした岩淵弁護団長のかわりに若手の中田弁護士が、報告しました。伝わりやすいようにと言葉を選びながら、中田弁護士は、判決を報告し、事実を完全に裁判所に認定させたのは、高齢を押して日本の裁判所に足を運んでくれた被害者原告のおかげであると感謝しました。素晴らしい一言でした中田弁護士!
法律や裁判の詳しいことは、農村の人たちにはわかりにくい面があるでしょうが、裁判所でのたたかいはこれからも続くことに、原告家族、聯誼会のメンバーは、気持ちを新たにすることとなったと思います。
55周年記念集会は、「紀念在日殉難烈士・労工骨灰送還55周年」追悼大会。天津市が協賛し、在日華僑が資金を集め、中国各地から、強制連行被害者聯誼会のメンバーを天津に招待しました。その数三百人。中には、あの靖国神社に対して「還我祖霊」の激しいたたかいを続ける台湾原住民タイヤル族の映画女優、国会議員でもあるチワス・アリさんが招かれていました。交流集会でも、映像化された彼らの闘いが放映され、満場の拍手が送られました。花岡、長崎、七尾からの報告もありました。李変さんがステージに上がりました。戦後補償を求めるアジア被害者たちの厳しい抗議要求は、戦後世代へと継承され、確実に新しい平和と人権の世界を目指す潮流となっていく
でしょう。私たちの七尾訴訟もその一環として、歴史に責任を持つたたかいなんだと改めて気持ちを入れ直した三日間でした。








ん親子がやってきました。中国の農村に住み、80才を越えるおじいちゃんには、海を越える長旅はきついです。それを押して、3回目の来沢です。3月28日、いよいよ七尾訴訟も最終意見陳述をもって結審となるのです。暢さんは、6人の代表原告と聯誼会を代表して最後の訴えを行います。
きな社会的裁判の弁護も務める多忙極まりない弁護団が、この間、無償というより、むしろ持ち出しをしながら数度の訪中も挟んで、論理を構築し、今渾身の最終言論を展開しました。
最終意見陳述に立った暢同道さんは、84才の高齢ながら、病気や高齢による体調不安で来日できなかった原告の万感の思いを代弁し、自らに降りかかった災難について克明に述べ、日本軍による拉致連行、強制労働がなければ一家の平安は奪われることはなかっただろうと、
















結審報告集会に臨みました。七尾在住の二俣共同代表があいさつに立ち、学徒動員で隣地で労務に携わった登間さんも参加されました。


国際法上、中国人被害者個人の請求権が戦後処理の中で本当に放棄されているのか、国際法の観点から学習を深めようと、神戸大学の五十嵐正博教授(前金沢大教授)を講師に招いて記念講演をお願いしました。
ました。どこへ連れられ、何をさせられ、どこでどんな死に方をしたのか、遺族は一切知らされず、そしてもちろん遺体はおろか、遺骨さえ未だに戻ってきてはいない。人道というものがあるなら、これ以上人道にもとる仕打ちはないでしょう。国籍や民族が違っても、温かな赤い血が流れている
人間の扱いにこんな差別があることに憤らない人はいないでしょう。そして、それが正当化される戦争を肯定する人はいないでしょう。














いるものです。港では、船、荷役の場所を確認し、船の高さや荷物降ろしの労働、足元のこと、天気のことなどを聞き出していきます。宿舎跡では、当時の写真を見てもらい、線路との位置関係を確認します。宿舎の壁や中の様子を思い出してもらいました。皆の顔が厳しいものに変わっていきます。5月21日の尋問に向けて、一つ一つ積み上げていきました。
まずは、人前での証言には、これまでに経験のある朱安国さんが、トップに立ちました。
次は、はじめて不特定な人の前で証言をする王徳功さんです。王さんとは、2005年秋の訪中で、新たな生存者としてはじめて出会い、しっかりした記憶で力強く語って下さった方でした。62年ぶりの日本、七尾そしてはじめて訪れた金沢で、期待通りに証言をして下さいました。彼は、イチ、ニ、、サン、シ一、バカヤロウ、ゴクロウサンなどの日本語をよく憶えていて、当時の監督者の口癖をリアルに伝えてくれました。
三番目は、李変さんです。李さんは、おじさんに対する思いがとても強く、その感情が言葉と体全体からほとばしるような人です。強制連行の理不尽さや今日までの日本政府、被告会社の無責任な対応に、心底からの憤りをぶつけるような証言でした。



今日(2月7日)、被害者原告を招いて、当時の現場、七尾港の埠頭、旧宿舎跡地で、中国人強制連行七尾訴訟の現場検証が行われました。私は訴訟支援会の立ち上げに参加してきましたが、この半年間は自治体選挙闘争の準備のため、事務局の皆さんと原告代理の弁護団にすべてをお任せしてきました。でも、今日の現場検証は是非立ち会いたいと思い、東奔西走の足を七尾まで伸ばしました。
に立ちました。当時の気象条件、埠頭の位置、当時の着衣、宿舎の様子、労働の実態、食事の実態、衛生状態など弁護人の説明に時折暢さんが補足説明を加えていきました。

沢地方裁判所に裁判を起こしました。ご存知の方もいらっしゃるでしょう。第1回弁論が既に11月28日に開かれ、原告の一人、朱安国さんが法廷で自らの体験と思いを意見陳述しています。私自身も、この問題を調査するメンバーとしておじいちゃんたちと10年来のおつきあいがありますし、訴訟を支援しています。
さて、私自身6度目となる今回の訪中調査では、河南省の農村上蔡県の村で、弁護士さんと共に王徳功さん、劉老貴さんという新たな生存者と初めてお会いし、当時の体験を聞き取りました。また、王さんの自宅を訪問し、帰国後の苦労を共にしてきたお連れ合いにもお目にかかりました。村人も出迎えての歓迎を受けました。60年間つつましく暮らしてこられた様子がよく想像される訪問でした。
1944年11月から翌年の敗戦にかけて、七尾港に合わせて399人もの中国人が労工として拉致連行され、荷役労働に従事させられていました。政府が業界と一体となって、閣議決定による国策として中国人の移入を推し進めたのです。過酷極まりない重
労働に加え、暴力的な虐待、劣悪な宿舎環境、粗末な食事、不衛生な生活によって多くが病に倒れ、命を奪われました。1年足らずの間に、死者15人、64人の失明者を含む眼病307人、皮膚病179人を出すなど、悲惨な数字がそれらを物語っています。また、生還しても、家族を失ったり、
後遺症のため十分働けないことなどが原因で苦難の人生を歩まねばなりませんでした。
えています。
