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森一敏
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 はじめての韓国訪問記

 10月13日から17日まで、社民議員団有志で「近くて遠い国」と呼ばれて久しい韓国を訪問した。私にとり念願の初訪韓だった。訪韓の主な目的は、金沢市の野田山に眠る抗日運動の英雄ユン・ボンギル(尹奉吉)義士の生地礼山郡で、彼が創始した農村自立復興団体月進会と交流することだった。併せて、板門店の視察、植民地時代の日本帝国主義の罪業を告発する紀年館を参観すること、そして、私の場合、夏に国際シンポジュウムに招いた李熙子さんとソウルで再会することでもあった。

 参加者は、団長に、ユン・ボンギルの顕彰と史跡保存に90年代初頭金沢市の協力を引き出した平田誠一金沢市議、通訳兼添乗は、ユン・ボンギルの歴史発掘と顕彰運動に生涯を賭けてきたパク・インジョさん、宮下登詩子県議、浅野俊二羽咋市議、古河尚訓松任市議そして私の6人である。浅野さん以下3人は、月進会との交流も初めてである。以下、意義深き旅の一端を報告する。
   
1.初めてのソウル入り
 13日15時45分、小松空港からのソウル便が飛び立つ。訪中3度、フィリピン、ソ連・東欧、オーストラリアも訪れてきた私には、自分の問題意識からも韓国訪問は一番の念願だった。折しも韓国全州市と姉妹都市縁組みを結んだばかりの金沢は、足元の国際化を果たす上でまず韓国の民衆と胸襟を開いた交流を展開しなければならない。社民党や市民グループがとりくんできたユン・ボンギルを通じた交流共同事業は、その土台を築くものとして新しい意義を持った。私も、議員としてその列に加わりたい。ついにチャンスがやってきたと心が踊った。
 北海道より近く、仁川(インチョン)新国際空港はあった。空から見える空港は、島全体に75万坪という広大な敷地が拡がり、周囲は赤茶けた独特の色をなしていた。しばらく前、NEAZE(アジアの新興工業国)の旗頭として経済発展を果たしてきた韓国の表玄関は、近代的で真新しいものだった。
 空港から旅行社のマイクロバスに揺られて埋め立て地域を経、真っ暗になったソウル市街に入った。市街中心部に入ると予想外に傾斜地が多い印象だ。空港周辺の高層建築街とは違い、人の生活のにおいがしてきた。焼き肉のにおいも伴って。
 宿地のブンジョン(豊田)ホテルに到着し、夕食は街の焼き肉レストランに入った。犬肉のメニューが出ていたとか出ていないとか話題になったが、我々が食べたのは、果たして何肉だったのかは、今も定かではない。たれたっぷりの焼き肉をしそによく似た大きな葉菜に包んで食べるのはおいしかった。皆、明日からの交流の成功を期待して、鋭気を養った。
 
2.板門店視察と李熙子さんとの再会と太平洋戦争被害者補償推進協議会事務局との交流

(1)板門店視察
 行動初日の14日は、南北分断最前線の板門店視察である。といっても、実は板門店定期ツアーと銘打つ観光商品である。朝鮮戦争休戦協定から50年。何度もの軍事的衝突も経てきた南北緊張の最前線地域が、観光商品となっている?!毎日、拉致問題に絡めた報道で「悪の枢軸北朝鮮」「いつ金正日は、国境を越えて南進するかわからない」とか、「テポドンを撃ってくるかもしれない。」など過剰ともいえる演出をするワイドショーに慣らされている日本人には、このギャップは理解に苦しむに違いない。
 豪華なソウルロッテホテル2Fにあるバスターミナルから観光バスに乗り、漢江(ハンガ)沿いに「自由路」を北上する。ガイドの女性は、深刻な声と表情で、しかし、よく聞くとブラックユーモアを交えて北朝鮮のかつての韓国大統領府青瓦台へのゲリラ侵入や北朝鮮の民衆の貧困生活などを細かに説明する。自由路沿いには、道路に沿って柵が張り巡らされている。
 彼女は、板門店での安全確保のためのルールを説明する。主に、北朝鮮軍兵士を刺激しないためのものと説明された。作業服、ジーンズ、半ズボン、ミニスカートなど禁止されている服装、撮影などについて注意が促された。パンフレットにも書かれている。バス内の空気が次第に、緊張していく。
 臨津江(イムジン河)が合流する頃、 臨津閣に到着。南北朝鮮を結ぶ建設中の鉄道線路が、川を越えて伸びている。向こうは、北朝鮮領である。まだ、自由往来はできないが、離散家族の相互訪問は近年活発化しているらしい。周辺をしばらく散策し、またバスに乗り込んで非武装地帯(DMZ)に入る。韓国軍の若い兵士が通行許可を確認する。
 バスは、国連軍のキャンプボニパスに入り、すぐにキャンプ内のレストランで食事を摂った。食堂横のゲストルームでスライドを身ながら非武装地帯や共同警備区域(板門店の正式名称)に関する説明がなされ、宣言書に署名を求められる。こう書いてある。「板門店の共同警備地区の見物は、適性地域への立ち入りを伴わない。敵の行動によっては、危害を受ける又は死亡する可能性があります。・・・・国連軍のゲストの皆様は、軍事境界線を越えて北朝鮮軍の管理する共同警備地区へ立ち入ることは許されていません。また、事変・事変を予期することはできませんので、国連軍、アメリカ合衆国及び大韓民国は、訪問者の安全を保障することはできませんし、敵の行う行動に対し、責任を負うことはできません。」そんなに危ないとこなのに観光地扱いか。確かに怖いもの見たさはあるか。 一歩、ゲストルームから出ると、鼻歌を歌いながら陽気にスキップして米兵が通り過ぎていく。こちらはベリーグッドと返す。どうも緊張感がない、今頃イラクの最前線では、地上軍の黒人たちが砂まみれになっているというのに。緊張ゆえの陽気さか、本当に緊張がないのか。日本に伝えられている一触即発の雰囲気はいったい・・・?ところでここに配属されている兵士はエリートだそうである。韓国兵は超エリートだそうだ。
 専用バスに乗り換えていよいよ軍事境界線付近に出かける。平和の家、自由の家を見学し、展望台に上る。カメラを北朝鮮側に向けてはいけませんと言われたかと思うと、「今ならカメラ撮影大丈夫です」と撮影許可が出る。すぐ向こうに北朝鮮側の板門閣の建物が見えている。こちらに体を向け、衛兵が直立不動である。動く気配はない。そして、私たちは、ついに軍事停戦委員会会議場に足を踏み入れた。こちら側では、北側に向かって国連軍兵士が建物に体を半分隠すようにしてテコンドーの姿勢で微動だにせず立っている。
 会議場は、よくテレビ映像で出てくるあの建物である。真ん中の机にマイクのコードが国境線上を這っている。このフロアーだけは、北側のエリアに立つことができる。記念撮影も自由である。兵士とスナップに収まる観光客も少なくない。
 無事会議場を出た私たちは、また野外に出、帰らざる橋や北朝鮮領の山岳地域や宣伝村の風景を遠望した。かつてはここで、流血の事件が起こっている。燃料に困って樹木を切り出したため北朝鮮の山ははげ山になった都説明された。確かにはげ山の景色である。(このあと、ソウルに戻り、ソウルの山も岩石質ではげ山が多いことを知る)
 こうして全行程が終了してキャンプボニパスに戻ると、そこは、キャンプ内にしつらえられた土産物店だった。
 宣言書はバスの中で記念に返された。実際の板門店残った印象は、やはり、本当に緊張状況?である。もちろん、朝鮮半島は終戦しておらず、米韓軍と北朝鮮軍が38度の軍事境界線を挟んで対峙している状況であることはまちがいない。しかし、有事法制論議で言われた「北朝鮮の脅威」とはこういうものだったのか。一同同じ思いを抱いたのが正直なところである。韓国内では、金大中以来の太陽政策が支持され、平和的統一とそれに向かう南北交流が促進されているという。日本の人々の意識とのギャップは大きい。
 ここで、38度線での南北分断の経緯を確認しておきたい。38度の境界は、さかのぼれば、その北側は日本敗戦までは、旧満州地域から続く関東軍の警備地域であった。このエリアには、中国共産党軍やソビエト赤軍と連絡をとる抗日武装勢力がゲリラ戦を活発に展開していた。その中の勢力から朝鮮民主主義人民共和国主席の金日成が出たと言われる。 一方の、38度線以南は、植民地時代を通じ、朝鮮総督府の行政組織が比較的安定しており、協和会を使った日本の朝鮮統治が行われていた地域で、かつては金沢の第9師団も「治安維持」に当たっていた。比較的親日派が育っていて、1945年朝鮮解放後、北朝鮮側と対決する反共勢力がアメリカによって組織された。朝鮮戦争で夥しい同胞の戦死者を出して、南北がその線で分断され今日に至っている。すなわち南北分断は、元を辿れば日本の韓国併合・植民地支配が出発点になっているということができるのである。その朝鮮戦争はまだ終わっていない。韓国政権はアメリカの強い介入によって成立し、そのアメリカに協力し、朝鮮での民衆の戦争被害によって戦後復興を果たした日本には、戦後一貫して米軍基地があり、韓国・日本にはアメリカの核が持ち込まれていることは公然の秘密とされている。軍事的にも経済的にも北朝鮮は、アメリカ(日米韓)軍事同盟にあいくちを突きつけられた状態で50年が経過した。そうした背景の下、北朝鮮の軍事作戦の一環として、南侵入のためのパスポート取得、日本語習得を目的に日本人を拉致する作戦が70年代に強行される。北朝鮮の軍事的暴発があるとしたら、その引き金をどこの国の政府が握ってきたのか、冷静に考えないといけない。この歴史的経過を私たち日本人はどう受け止めるべきだろうか。

(2)李熙子さんとの再会と太平洋戦争被害者補償推進協議会事務局との交流
 その晩、予定通り李熙子さんと再会することができた。連絡にパク・インジョさんが骨折りしてくださった。感謝感謝。
 李熙子さんは、2ヶ月前と変わりなく、お元気そのもので私たちと夕食を共にしてくださった。太平洋戦争被害者補償推進協議会事務局から事務局長の金さんと、女性職員の閔さんが同行された。元朝鮮人特攻兵の遺族に関する調査資料を受け取り、交流に盛り上がった。 李熙子さんがパクさんや平田団長と会話に花咲かせている間、私は戦後補償裁判のために何度も来日している金さんと、北朝鮮問題や韓国のイラク派兵反対闘争について話した。金さんは、流ちょうな日本語を使い以下のように述べた。「イラク派兵反対運動にももちろん関わっている。韓国世論では半々である。日本では世論はどうか。民主党と自由党が合併し、衆議院選挙があると聞いている。日本の自衛隊はアジア最大の軍事力だ。憲法9条の改正はアジアの緊張を高める。中国を刺激する。北朝鮮に対しては、経済が苦しく、軍も弱小で、韓国民は誰も本気で北朝鮮軍が韓国に攻め入ってくるとは考えていない。むしろ、離散家族の行き来が活発になるなど人々の交流は進んでいる。最大の脅威はアメリカ軍との認識が拡がり、多くの若者は反米軍基地のたたかいに参加している。2005年は1905年の対日不平等条約押しつけから100周年、植民地支配の責任を経済援助で帳消しにした韓日条約締結(1965年)から40年に当たる。韓日間で文化交流のイヴェントをしたい。民間交流こそが平和友好を創る。」
 一同大いに共感し、今後の交流を約束しながら分かれた。李熙子さんとのおつきあいはこれからも続く。

3.植民地支配と戦争の傷跡を尋ねる

(1)西大門刑務所歴史館見学 
 韓国での3日目の15日、これからは日本の植民地支配時代の歴史と向き合う旅となる。
 最初の訪問先は、旧日本統治下、主に抗日運動の政治犯を収容する監獄であった西大門刑務所跡の歴史館だった。監視するために放射状に配置された獄舎は、レンガ積みの堅牢なもので、当時行われていた苛烈な拷問や取り調べの状況を人形、ドラマ映像などで再現している。韓国民衆は植民地となることを歓迎していたかのような発言を耳にすることがあるが、あらゆる醜い拷問は、統治した日本の側がいかに韓国民衆の抗日運動を恐れ、憎悪し、敵視していたかがよく分かる。それは、日本の統治が強要するものであったことの裏返しであり、何よりの証左である。認めたくない人には、韓国を訪れ、歴史館や独立記念館を見学し、韓国の人々と直接対話することを奨めたい。

(2)尹奉吉(ユン・ボンギル)墓所参拝
 球技場横に墓所があった。彰烈門をくぐって入る。奥まったところに4つの土饅頭が並んでいた。向かって右から白貞基義士、尹奉吉義士、李奉昌義士(皇居桜田門事件実行)の墓標が並び、左端には墓石のない安重根の土饅頭がある。韓国で4大義士と並び称される抗日闘争の英雄たちの墓である。伊藤博文をハルビン駅頭で暗殺した安に墓石がないのは、捜索にもかかわらず未だに彼の遺骨が見つかっていないからだそうである。
 静かな墓所内で、我々は献花し、植民地支配の不当を想い、歴史の事実の継承と、戦後責任・補償の前進、そしてアジアの平和共存・共生への課題に思いを馳せた。

(3)ソウル梅軒尹奉吉(ユン・ボンギル)義士記念館
 義士と讃えられる韓国独立運動の英雄尹奉吉(ユン・ボンギル)が、韓国の歴史上いかに大きな存在であるかをこの記念館は知らしめてくれる。首都ソウルの市街地に大きな記念館建造物がそびえている。ここでは、ユン・ボンギルの誕生から、農村復興運動、そして独立運動を志し、上海爆弾事件を決行(川端貞次居留民団長死亡、植田謙吉第9師団長、白川義則日本軍司令官、重光葵公使ら重傷)、ついには金沢市の三小牛山で処刑されるまでを、写真、再現画、書簡など豊富な展示物で顕彰している。館内でユン・ボンギル研究の第1人者であるユン・ビョンゾウ教授から説明を聞いた。館内に展示されている写真の一部は、パクさんが提供したものとのことである。この記念館には歴代大統領が参観に訪れている。

(4)独立紀念館
 ソウルからまっすぐ南下した忠清南道天安市、夕闇迫る頃、韓国独立紀念館に到着した。パクさんがユン・ボンギル顕揚会の名刺を駐車場管理人に提示すると、彼はいんぎんな態度で城内に招き入れ、館に横付けの駐車位置へと案内してくれた。ユン・ボンギルとパクさんの威力に一同敬服。
 突然の訪問にもかかわらず、館長の李文遠さんが我々を館長室に招き入れてくれた。120万坪の敷地を持つ紀念館は、1987年市民の寄付によって建設された。意外なほど歴史が新しいのは、建設が日本での植民地支配の歴史歪曲の動きへの憤激がその動機になったからだと説明された。中国の抗日戦争紀念館や南京大虐殺紀念館建設と同様の建設経緯である。アジアにおける信頼されない日本の位置がここでも浮かび上がる。
 豪壮な資料館全体を参観するのは余りに時間が無く、日本語解説員の女性(名前はメモ漏れ)と駆け足で回った。印象に残る彼女の言葉は、日帝侵略館での「日本がいかに悪いことをしたか次々に展示していますが、罪行を暴くのが目的ではなく、事実を学び、未来の教訓としたいのです。どうか理解してください。」であった。
 ユン・ボンギルの時代、つまり1930年代の地下臨時政府の抗日運動の時代が近代韓国の再スタートであり、植民地支配で奪われた民族文化、誇りの回復により民族意識を高揚を目指し、苦難の抗日闘争を民族的団結・国家統合の根源とする歴史観が紀念館を貫徹している。
 市民意識、労働者意識の観点からは違和感もあってしかるべきだし、もちろん、今日韓国で活発化する民主化運動、労働運動、そして反米軍基地闘争の中心をなす若い世代の意識は日本も学ぶべく変わってきていることも肌で感じたわけだが、民族的体験である苦難の共有体験が、人々の意識の根っこにあることを我々加害の側に生きる者は深慮すべきである。独立紀念館駆け足訪問の感想である。
 凛とした女性解説員に謝意を延べ、記念撮影を終えて、いよいよ月進会が待つ礼山郡徳山へと急いだ。
 
4.礼山郡徳山ユン・ボンギルの生地を訪れる

 夜も深まった何時頃だったか、礼山郡月進会の幹部の方々が待つ焼き肉屋に到着した。
 しばらく前、金沢市庁舎でお会いした尹圭相会長がにこやかに迎えてくださった。食事と歓談の後、徳山温泉ホテルに移動した。温泉入り口には、「歓迎 石川県金沢市訪問団」の横断幕が掲げられている!
 初参加の私と古河さん、浅野さんは、10時過ぎから尹圭相会長の講演に聴き入った。80歳の会長の熱弁は興味深く、夜中の1時半に及んだ。

(1)月進会 尹圭相会長の講演要旨
 韓国では、尹奉吉「義士」と呼ぶ。家系を辿ると、祖父はとうじん郡で農業を営んでいた。当時は封建時代で、不文律として地主に7割の地代を納めねばならず、いくら勤勉でも土地は持てず、いくら不作でも小作料は払わなければならなかった。地主と小作の間に舎音(マールシ)という仲介者がいて、土地の豊かさにより、小作をかえて中間搾取していた。だから小作農は、絶えられなければ逃げて火田民になるか、地主の雇人となるか、チゲ(背負子)を担ぐ行商人になるかしかなかった。尹の祖父は、逃げて徳山の村にやってきた。
 彼は川の中州に掘建小屋を建て、そこで耕作して自分の土地を持った。天子教の影響で制度が変わってきた時でもあり、勤勉であれば土地を持つことが許された。村人たちは勤勉な祖父を賢い“モグラ”と呼んだ。
 二人の息子は平凡であったが、尹奉吉が生まれ、祖父の気質を受け継いだ。彼は負けず嫌いだった。植民地下で、日本人の学校に通う子どもと仲良くなり、尹も通学するようになったが、日本語ではかなわないので、俺は漢文で行くと学校を辞めてしまった。
 彼は、書堂、塾、書院、普通学校そして中学校とすすみ、共産主義思想を学び始めることになった。唯物史観、弁証法、資本論などの読書会に参加し、それが、後の農村復興運動につながった。   
 やがて、独立を求める光州学生運動が起こり、友人たちは去っていった。22歳で金持ちの家の娘と結婚した彼は、夜学会を主催し、蓄音機で音楽を聴かせたり、耳菓子を振る舞ったりして大盛況となった。これが駐在所のお巡りに目を付けられることとなった。その頃、朝鮮総督斉藤実は武断政治から文化政策に転換し、産米増殖運動を展開していた。
 尹奉吉は、「このままでは、日本という大きな岩を小さい農民がハンマーで叩くのと同じだ。一気に破壊するには亡命しなければならない。」と決心し、日本が敷設した鉄道に乗ってソウルへと出た。さらに中国に入り、大連から青島に入り、そこで日本人の洗濯屋に住み込んで金を稼いだ。
 日本は韓国併合の後、1932年「満州国」を建国したが、国際的に認められず、国連を脱退する。世論のため、第1次上海事変を起こした。中国国民党は退却作戦をとった。上海派遣軍司令官の白川大将は、上海だけでよい、奥に行くなと32年4月29日に戦勝記念式典を上海の虹口公園で挙行した。そのとき尹奉吉は爆弾事件を起こす。
 君が代、万歳の後、雨が降り出した。マイクがとぎれとぎれになりその間隙に前に進み出た。日本軍(第9師団)は民間人である尹を捕らえ、軍法会議にかけ、死刑を宣告した。太陽丸に乗せ、大阪まで連行した。大阪には労働組合、共産主義者が多くいたので、金沢ヘ連行し12月19日に銃殺した。彼は銃殺の際、堂々としていたという。
 彼の行動により、瀕死の状態だった臨時政府は息を吹き返し、中国軍も動き始めた。

(2)礼山郡内の視察と交流
 オンドルで暖かい部屋で目覚め、寝不足気味に一日が早くも始まった。
 疲れ知らずの尹圭相会長の案内で、百済時代の王族の墓、日本軍が破壊した百済時代作の四面石仏、1700年代の秋史先生の旧家、尹奉吉が通った任城中学校と回り、昼頃に礼山郡 朴鍾淳郡主を表敬訪問した。郡主、議会議員が招待してくれた昼食会も通じ、朴郡主は金沢との文化交流、農産物取引の可能性を尋ねられた。尹圭相会長は子どもたちの交流を求められた。平田団長が強調したのは、相互訪問による交流の積み重ねが礼山郡と金沢市の交流提携に道を開くという事だった。そのいくつ目かの一歩を私も記しているということだ。

(3)尹奉吉祈念堂、生家、紀念館訪問
 午後は、尹奉吉がよく通った修得寺を参観し、ついに生地にある祈念堂、保存された生家、そして紀念館を訪問した。どこもきれいに整えられ、説明員の方の熱弁、参観者の熱心な表情が印象に残った。尹圭相会長が建てた褓負商遺品展示館は、封建時代の農民がチゲを背負って行商にでたたくましい生き様をリアルに伝えていて、勉強になった。夕暮れが迫る時間になっていたが、尹奉吉が生まれ、育ち、決起していく当時の空間を時間を隔てて共有している特別の感慨が湧いてくるのだった。
 
 夜は、答礼の夕食会を盛大に開いた。月進会のメンバーが顔を揃え、歴史認識や歴史教育、今日の朝鮮半島情勢にまで話が及んだ。植民地時代の日本語教育により日本語を話せる高齢者の方との対話は、胸が痛むが直接対話が有意義だった。足元からの国際化いや民際化の現場だ。雰囲気は盛り上がり、二次会は近くのカラオケボックスとなり、大騒ぎで歌あり、スキンシップありの交流会となった。心のこもった特別な待遇だと、平田団長、パクさんも驚いたそうだ。
 初訪韓の私。本当に感謝以外の言葉はなく、私たちが持ち帰るべきものの大きさに思いを巡らせる旅となった。
翌朝月進会の皆さんに見送られ、徳山ホテルを後にした。
 5日間通しの運転手さんに感謝しながら、仁川国際空港から帰国の途についた。


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