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森一敏
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 韓国禮山郡と金沢市との相互交流2005年

 議員となって3年目の2005年度、これまで参画してきた韓国禮山郡との相互訪問と交流は、新しい段階に入ったと思う。4月27日から30日までわれわれ日本側ユン・ボンギル顕揚会訪問団が、ユン・ボンギル義士祭享に沸く禮山郡を訪問。5月23日から27日までは、最も若い禮山郡議会議員趙起徳議員が金沢市に行政視察に訪れた。そして、6月10日から13日にかけては、初めて山出金沢市長の招待により、禮山郡朴鍾淳(パク・ジョンスン)郡守一行4人が百万石祭り視察に金沢を訪問した。領土問題、歴史教科書問題、日本の国連安保理常任理事国入り問題に対し、日本側の思慮に欠ける態度に起因する日韓対立の中で行われたこれら意義深い相互交流の概要を以下ご報告したい。

1.訪韓(4月27日〜30日)
    ーユン・ボンギル祭享で初めてスピーチー

 今年も禮山郡月進会の招きでユン・ボンギル義士義挙を記念する祭享に参列した。歴史は重ねられ、上海爆弾事件からから73周年、このように盛大な文化祭行事は32回を数えている。私は昨年に引き続いて2回目の参加だ。衰えを知らないパク・インジョさんが通訳兼添乗員、訪問団長は歴戦の平田誠一金沢市議、そして、相棒の盛本芳久県議、石政連の仲間古河尚訓白山市議夫妻、私の6人の訪問団である。私自身、3度目の韓国訪問だ。 しかし、今回は出発前から雰囲気が違っていた。私たちにパクさんを通じて、月進会ユン・ギュサン(尹圭相)会長から、昨今の日韓問題についてどのような認識をもって訪韓するのか、それはどのような言葉で表現されることになるのかと、問い合わせが前日まである。準備してきた和太鼓グループの招待も、タイミングが悪いとの判断で断りの連絡が入っていた。

(1)初体験!警察の警備を受けての遺跡・旧跡の視察28日公州、扶余
 27日仁川国際空港からそのまま禮山郡入りし、月進会の心のこもった歓待を受けた翌28日、我々は遺跡・旧跡で有名な扶余(プヨ)と公州(コンジュ)を視察することにしていた。
 尹圭相会長は、視察先で反日感情から不測の事態が起こらないか非常に心配され、以前禮山郡の警察官で現在は扶余市の警察署長を表敬訪問するよう勧めた。便宜を図るよう依頼してあるとのことだ。午後一番に扶余市に入った我々は、真っ先に扶余市警察署を訪れ、署長に表敬した。笑顔で社交的な署長は署長室に我々を招き入れ、お茶を飲みながら談笑しているうちに、驚いたことに、おもむろに横尺八のような竹製の長い笛を取り出して一曲披露して歓待の意を示してくれたのだ。我らが師範盛本さんが皆に勧められて挑戦、苦戦する一幕も飛び出した。
 しばらく歓談して、警察署を後にしたが、警察官が一人、覆面パトカーに乗り込んで我々の車を先導してくれる。それだけではない、愛想良く、スナップ写真のシャッターを進んで押してくれたり、いたれりつくせりなのだ。さすがの平田さんも長い人生で警察にこんなにサービスしてもらうのは初めてやと、感激!しきりだった。車中、たぶん、警察署長も明日の祭享でスピーチの内容を気にしているとの問い合わせがパクさんの携帯電話に入る。たぶん尹圭相会長からであったろう。その意味するところが何であったのかは、後になって分かるのだが、
 さて、肝心の公州市、扶余市の遺跡・旧跡めぐりを少し、写真で紹介することにしよう。
公州市には有名な百済武寧王陵(百済第25代王、501〜523在位)を中心とした宋山里古墳群がある。日本の古代王朝時代にしきりに日本海を越えて行き来していた歴史が、国立公州博物館に展示されている。武寧王の遺跡は、1971年になって発掘されたもので、埋め戻し、復元したレプリカが展示されている。煉瓦積みの棺室は色彩感豊かでとても見事なものだった。日本海を隔てて韓半島から様々な文化を渡来人たちが日本に伝えてくれた。日本からもまた、赴き、足跡を残している。考えてみれば、国家と言う概念が今ほどのものではなく、「日本海(東海)という内海を共有して好きに移動していた平和な長い時間があったのだろう。展示物を見ながらそんな想像が楽しかった。

午後は、扶余市だ。扶余市の中心部には、遺跡から出土した何とも美しい形をした百済時代の香炉のモニュメントが迎えてくれる。(百済金銅大香炉)扶余陵山里国立博物館では、1993年に陵山里の寺跡から発掘された実物が間近で見ることができる。高さ61.8センチ、百済精神と芸術的力量が凝集された最高傑作と評されている。こんなに美しい芸術作品がこの時代につくられていたことに感動した。金沢21世紀美術館に展示されても、全く違和感は感じられないだろう。古くささを感じさせず、現代感覚にも受ける独特の美しいフォルムだ。小さなレプリカをおみやげに頂いた。我が家の玄関で毎日迎えてくれている。
 陵山里国立博物館を出てからは、百済時代最後まで栄えた定林寺跡の五層石塔を参観し、パクさんが涙なしには語れないという、落花岩の悲劇現場を遊覧船から観た。新羅・唐連合軍の攻撃にあって百済が滅びるとき、多くの百済の女官達が貞操を守るために白馬江に身を投げたという伝説の場所である。その様子が散って落ちる花びらのようだったとの故事から、落花岩と呼ばれるようになったという。岸から上陸すると、断崖に寺があり、遠足の子どもたちがたくさんやってきていた。その絵図には、物語が書かれていて、日本から船でやってきた女官達の場面が描かれていた。詳しい意味は分からないが、行き来していたそのころの関係性が読み取れるような気がして、しばしその絵を見つめた。延命水を味わって、警察官に礼を言い、宿舎である禮山の徳山温泉ホテルに向かった。印象に残る遺跡・旧跡めぐりの一日だった。たくさんの韓国人、子どもたちと出会ったけれど、尹会長が心配したこともなく、無事に。

(2)禮山郡議会議員との意見交換そして交流会
 夕方からは、禮山郡議会議長はじめ、議員たちとの意見交換会が開かれた。アルコールを交えずに、互いの交流施策をどう進めるのかを話し合う初めてのセッティングが実現した。
 この場で、我々を代表し、平田団長が次のように演説した。歴史教科書問題をはじめ現在の日韓関係の困難な状況には、たいへん残念な思いがあり、皆さんにも不安な気持ちを抱かせていることをこちらの力不足もあり、申し訳なく思う。ユン・ボンギルの慰霊の地が金沢にあること、それを全力で守っていくことが、金沢市の日韓親善、友好交流の基盤である。我々もがんばる。ぜひ、郡守、議長の金沢訪問を呼びかけたい。この席上、我々のこの間の姿勢や交流の経験から、平田団長の演説は拍手で受け入れられ、金沢市長の公的な招請があれば、郡守、議長の同時訪問は無理だが、是非訪問したい、文化交流や子どもたちの交流が実現できないかなど、意見交換に花が咲いた。市長にも禮山郡への訪問希望があることを平田団長は伝え、行政レベルの相互訪問を是非実現しようと呼びかけがあった。    
 その後は、交流の宴会に盛り上がっていった。去年月進会訪問団の一員として来沢し、以来私を「オーマイフレンド、ミスターモリ!」と呼ぶ、趙起徳(チョウ・キッドク)議員と彼の金沢市行政視察について打ち合わせをしながら、ジンロを酌み交わした。彼の来沢は5月下旬になりそうだ。
(3)そして祭享、文化祭式典会場でのスピーチ
 4月29日来年から日本ではこの日が「昭和の日」となるのだが、昭和とは民衆にとっていかなる時代であったのか、後世の世代がしっかり検証しなければならない。ここ禮山では、ユン・ボンギルが1932年、上海虹口公園で日本軍戦勝記念祝賀式典演壇に爆弾を投げて、日本統治下の韓国にたたかう勢力が地下水脈で生きていることを示した特別の日。この日の意味の重さは、足を踏まれてきた側にしか本当のところは分からないのかも知れない。しかし、人々から謙虚に学び、同じ人間として共感する努力はできる。同じ時間、同じ場所を共にすることで。郡の人口を上回って10万人とも言われるこの日の人出は、居合わせる私に理屈を越えて迫り伝わってくるものがある。去年盛本さん、市国際文化課の浦上さんと夜店を歩いて、一杯やった思い出が懐かしく思い出された。
 

 祭享は忠義堂で厳かに、簡素に執り行われた。郡守、ユン会長も、民族衣装に身を包み、ユン・ボンギルの魂を称える儀式を取り仕切る。合唱隊、民族合奏隊が歌と音楽を奏でる。来賓には、忠清南道の道議会議員、今年はユン・ボンギルの孫が参列した。ノ・ムヒョン大統領から贈られた花輪が供えられる。我々は、日本からの唯一の来賓である。中国からは、上海で抗日地下闘争を闘う活動家を支援した上海市民の遺族が招待されていた。
 祭享会場から人混みを歩いて島中島(ユン・ボンギルの父が耕して耕作地に変えた中州)の文化祭典会場に移動した。ここで、月進会活動に功績があった人、青年が表彰を受ける。そして、海外からの来賓が挨拶をするのだ。ユン会長は、ここでのスピーチにたいへん気を遣っていたのだ。
 我々一行は紹介され、壇上に呼び出された。禮山郡の庶民の方々が会場を埋め尽くしている。戦争時代を体験したお年寄り、どこにでもいそうなおばさん、日焼けした青年・・・いろんな世代の顔、顔、顔。2千人ぐらい集まっていただろうか。ユン会長から紹介があり、平田団長が山出金沢市長からの親書を報告し、我々ひとり一人を紹介した。そして、盛本さんにマイクを振った。昨夜の宴会最中にそう決まったらしい。盛本さんは「急に一方的に決めてしまうんだから」と苦笑していたが・・。

 盛本さんは、現在の情勢に対し、韓国の皆さんに不安を与えていることに申し訳ないとの気持ちを率直に語りかけた。(通訳は禮山出身で日本に留学している高さん)我々全員の共通した思いだ。禮山郡と金沢石川の友好を是非発展させたいと決意を語った。その後、私にマイクを譲って、一言をと紹介してくれた。私ももちろん韓国の不特定多数の人々を前に話すのはさすがに初めてだ。聴衆の目はこちらに一点集中だ。日本人がいったい何を話すのか、じっと聞き耳を立てている。私は、日本政府のアジア政策には問題が多いと考えていること。金沢野田山のユン・ボンギル縁の地は、禮山の皆さんはもとより、我々金沢市民にとっても共通の財産であること。史跡を通じて、歴史的な真実や苦しみの記憶を学びたい。日本政府が二度と道を誤らないよう、皆さんと協力して平和をつくっていきたい。是非、金沢を訪問してほしい。そんな思いを語りかけた。懸命に言葉をつないだつもりだ。聴衆の真剣なまなざしが柔和になり、我々を万雷の拍手が包み込んだ。国家の垣根を越えて生身の人間同士、こんな当たり前のことがすごくうれしく感じられるのだ。ユン会長も笑顔でホッとした表情だ。ユン会長は、27日の夜、歓迎食事が終わってホテルに送りに来てくれた際、こう言われた。「今は21世紀です。もう領土がどうこうと争う時代ではないでしょう。何が人々の利益になるのか、知恵を出すべきです。」十分我々日本の立場を思慮った言葉に恐縮したのだった。
 われわれのスピーチが、禮山でたいそう評判であったことは、6月の郡守一行の金沢訪問で聞くことになるのだった。

 昼食は、郡守が老舗の山野草料理の専門店で歓待してくれた。午後、禮山をあとにし、天安の独立記念館を訪問。独立記念館では、若い日本語が達者な学芸員に案内してもらった。今回もやっぱり駆け足になってしまった。独島の展示コーナーでは、さすがに韓国領土の証拠を示すものが目を引いた。江戸時代の公文書や地図が展示されていたが、その真偽はさておき、島根県議会で可決した竹島の日条例には、1905年編入とある。その年は、日本政府が軍事力を背景にしてウルサ条約を強要した年である。日本が朝鮮を植民地化する過程での領土編入である。それだけで十分に解釈できるではないか。ポツダム宣言受諾によって、植民地はすべて返還することになったのだから。何を今更である。
 ソウルに入り、翌日帰国の途についた。私にとっては3度目の訪問だったが、これまでにも増して印象深く、禮山の人々を肌で感じるものだった。マスコミ報道や政府関係者のコメントは、意図的な反日教育が無用の反日行動を誘導している、である。韓国、中国政府に是正を求めるというものだ。しかし、蹂躙された人々の体験と心の傷は、世代を超えて民族的体験として継承されるものなのだ。その起点をつくりだした側が、そのことを深く認識して誠意と責任を持って対処すれば、自ずと溝は埋まり、友好の大平原が広がるに違いない。
 


2.趙起徳禮山郡議会議員金沢で行政視察
                    (5月23日〜27日)

 禮山での約束通りに、趙起徳(チョウ・キッドク)議員が金沢の行政を勉強したいと、単身やってきた。彼は、私と同じ1952年一月生まれ。禮山郡議員では一番若い議員だ。何でも実家は実業家の系譜で、彼自身イチョウの葉の薬効成分を利用して医薬品を製造する薬品会社の経営者である。お金がないと韓国では議員はできないと言われるが、正に彼はうってつけなのかも知れない。
 でも彼は、名誉欲で議員になったのでは決してなく、農村地域の禮山に新しい市政を確立したいと意思をもち、熱心に学習する姿勢を持った人である。そこにシンパシーを感じ、金沢での行政視察の仲介と帯同をかってでることにしたのだ。彼の行政視察には、市国際文化課の大路課長、韓国担当の荒木さん、そして韓国から国際交流員として文化課に籍を置く張(ジャン)さんには通訳としてたいへんお世話になることになった。
 視察初日の24日は、新助役蓑助役への表敬訪問からスタートした。山出市長は公務忙しく、廊下での挨拶となったようだ。蓑助役は、21世紀美術館館長であり、国際文化に造詣が深い。韓国文化の話題にしばらく花が咲いた。
 続いて、市政の全般的な概要を知ってもらおうと、財政課から市の予算について説明を受けてもらった。
 以下スナップを並べる。

 【卯辰山工芸工房視察】
  
 【金沢市農業センター視察】
 











 彼が視察した場所は、この他にも金沢21世紀美術館、東山茶屋街、戸室リサイクルプラザ、金沢中央朱鷺の苑である。また、一番遠くにある姉妹都市ポルトアレグレ市からやってきたピアニストのリサイタルにも入場してもらった。顕揚会主催歓迎会、社民党議員団の歓迎会、市主催夕食会などなど、毎日夜食事を共にし、張さんの通訳でよく意見を交わした。彼は、政治家として禮山でやりたいことがたくさんある。その姿勢には学ばせられること大である。この視察から禮山で新しい施策が生まれたら、素晴らしい自治体交流だ。彼の今後に期待したい。
 なお、日韓関係については、韓国人の中には日本が再び軍事的な脅威になるのではないかとの不安が確かにあり、アメリカと並んで脅威の対象になっていることは否めないと、控えめな言い方で言及していた。

3.禮山郡郡守一行金沢市訪問 (6月10日〜13日)

 我々が春に訪韓し、郡守の金沢訪問を市長からの招待として要請したことが受け止められ、趙議員との連絡を通じながら10日からの百万石祭にあわせて一行の訪問が実現した。我々は、国際文化課と連携し、独自に過去禮山郡訪問経験にある方々、議員団、社民党からなる歓迎委員会をつくって受け入れの準備を整えた。この4日間も、パク・インジョさん、国際文化課の大路課長、荒木さんはじめ職員の皆さん、通訳の張さんにご苦労をおかけした。
 10日14:30頃、平田市議、パク・インジョさん、顕揚会会長のいとう僧侶、そして荒木さん、張通訳と私が 小松空港ロビーで朴鍾淳(パク・ジョンスン)郡守一行4人を出迎えた。一行は、郡守の他、月進会会長尹圭相(ユン・ギュサン)さん、禮山郡経営文化管理室長崔和鎮さん、広報担当キム・ヨンユンさんの4人だ。禮山訪問時の歓待に礼を述べ、金沢訪問を歓迎する気持ちを伝え、国際文化課が用意した市のマイクロバスで市役所に向かった。
(1)市長表敬訪問
 一行はまず山出市長を表敬訪問した。両自治体の首長同士が会見するのは初めてだ。市庁舎内の来賓室「紅梅」で歴史の一こまが刻まれた。迎えた山出市長は、郡守の来訪をねぎらい、ユン・ボンギルを縁とした友好交流を未来志向として強調した。この「未来志向」という言葉をめぐって、盛本さんと加害の側が持ち出す言葉ではないなあと意見が一致したが、このことは、あとの歓迎宴で盛本さんが挨拶で触れることになった。もちろん市長に悪気はないのだが、認識というものは簡単ではないなと思う。
 市長は、平田さんが土産として市長にわたしていた扶余の百済金銅大香炉のミニレプリカのことをしきりに質問していた。歴史文化を話題に持ちかけるのは話題作りとしては流石だ。 
 朴郡守は、市長の歓迎のあいさつを受けて、年齢的にも先輩である山出長を兄と持ち上げ、金沢市の市政に学んで禮山郡の施策を発展させたいと表敬の挨拶を返した。また、韓国の英雄ユン・ボンギルの史跡保存への協力を感謝すると述べ、一時期の苦難の歴史を乗り越え、自治体同士の交流からアジア全体の平和に貢献したいと、今後の禮山郡と金沢市との友好交流の発展に努力したいと続けた。郡守は、市長に禮山への訪問を要請し、招待する旨を伝えたのに対し、市長も、日程が許せば是非訪れてみたいと返した。市長は、韓国の飴売りを芸能者として、金沢での文化行事に招きたいと申し出、芸能についてしばし会話が続いた。 
 実はこの飴売りは、私も去年禮山の文化祭の夜店で実際を見ている。軽快な音楽をバックに、手さばき鮮やかに長く伸ばした飴を切っていくのだ。愉快で楽しい大道芸だと思っていたのだが、通訳の張さんによると、飴売りの歌は、自分の貧しく苦しい身の上を語って、物乞いをするのがルーツであるらしい。悲しい物語。意外な話であった。でも、日本の芸能にもそんな要素が確かにある。被差別部落から歴史に残る芸能や芸術者がたくさん生まれて今日に伝えられているのだから。一同で記念撮影し、市長表敬は終了した。

(2)一行歓迎宴
 郡守一行は、浅野川での友禅灯籠流しを観賞し、歓迎宴会場に到着した。金沢市と歓迎委員会が共催してこの歓迎宴は準備された。
 歓迎委員会を代表して宮下県議と東元市文化スポーツ局長が歓迎の挨拶を述べて会が幕を開けた。それに先だって、盛本県議が師範の腕前を披露して拍手喝采を浴びた。(尺八で聞く「アリラン」はひときわ哀愁を感じさせて良かった!!)
 平田市議の力強い乾杯で宴は盛り上がっていった。私は、ひたすら写真撮影でちょろちょろと動き回っていた。郡守は上機嫌で少々長い挨拶に二度も演壇に立った。表敬訪問より、本心が語られたようだ。以下スナップを紹介しよう。














 2時間があっという間に経った。ユン会長が格調高く含蓄ある答礼の挨拶を述べ、先ほど述べたように盛本県議が締めの挨拶を行って終宴となった。

(3)ユン・ボンギル義士法要

 郡守が初めて野田山の史跡を訪れるというので、パクさんは夜通し法要の準備に汗を流した。気合いが入っている。
 11日午前、顕揚会会長、小松のいとう僧侶の読経で法要が執り行われた。在日韓国人、ユン・ボンギルの劇を上演する準備を進めている演劇関係者、そしてわれわれ歓迎委員会メンバーが集まった。パクさんが精魂込めて綴った口上文が朗々とユンボンギルの碑前に奏上されて法要は始まった。
 パク郡守、ユン会長と順次献花し、手を合わせた。最後に郡守が挨拶を述べ法要は終了した。
 改めて考えるに、本当に世界広しといえどもこの場所しかないのだ。ユンが射殺され、暗葬されていた紛れもない縁の場所は。歴史の縦糸が結びあう地点であると同時に現代という同時代のアジア・日本の空間上の横糸の結び目の地点に私たちは立っているのである。その重い意味を考えながら、汗だくになって会場設営に献身するパクさんを前に、パクさんの存在無くしてこの地を誰が守っていくのかまたこれも、重い課題に思えてきた。


(4)百万石祭見物
 あいにくの雨の中、百万石パレード見物となった。これはスナップだけを紹介しよう。


(5)市内視察
 郡守一行は、兼六園(海石塔・・朝鮮出兵寺の朝鮮からの略奪品)、聖戦大碑、東茶屋街、卯辰山工芸工房、健康センター千寿閣、市民芸術村、金沢城三の丸広場での薪能を精力的に視察した。



 
金沢最後の夜は、市内の焼肉店で夕食交流会を開き、深夜まで呑み、語り合った。郡守一行は翌日13日、全日程を無事終えて午後3時過ぎに小松空港から空路禮山郡へと帰国の旅についた。来年4月の再会を誓い合って。


 約2ヶ月にかかる我々の日韓交流は逆風の中で取り組まれたが、逆風の中だからこそ特別の重み・意義があった。ユン会長は小松から金沢へ向かうバスの中で述懐した。4月祭享で、我々にスピーチ
させることは彼にとっても会長職を賭けるほどの決断だった。反日感情が高まるなか、日本人を祭に招くとは民族への裏切りだ。そんな批判を受けるかも知れない。でも、思い切って実行して良かった。スピーチの内容が素晴らしかった。聴衆はみな拍手でスピーチを迎えてくれた。私の株もまた上がった、と。ユン会長の決断は、これまでの金沢と禮山郡との民間交流が積み重ねてきた信頼感であったろう。日韓関係は民族、国家間の関係であるが、何よりも人同志の関係なのである。


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