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 川崎視察等報告

行政視察 神奈川県川崎市 外国人市民との共生施策
東京都世田谷区羽根木子どもプレーパーク
法務省要請 「再入国許可制度」撤廃を求める
上記の目的をもって、去る2月15日から17日までの3日間、東京方面へ出張を行いました。行程は次の通りです。これから、それらの内容について報告します。
 個人行政視察                         
  2月15日 川崎市行政視察 〜外国人市民との共生施策について〜
         社民党全国連合 再入国許可制度撤廃を求める要請(同会メンバーと)
  2月16日 法務省への要請行動
         東京都世田谷区羽根木子どもプレーパーク視察
  2月17日 丸木美術館参観(埼玉県東松山市)、
         女たちの戦争と平和資料館(早稲田)参観

1.神奈川県川崎市への行政視察
  ー人権・男女共同参画室主幹 外国人市民施策担当の山崎信喜さんの説明を受けてー
 国政条項原則撤廃、子どもの権利条例など、人権施策において、とりわけ外国人の人権保障に関して全国的に先進を行くと評価される川崎市への視察は、かねがね機会を考えていました。この度、再入国許可制度撤廃を求める会の主要メンバーが法務省要請を行うことになったことに併せ、外国人市民との共生施策をテーマに視察することになりました。一昨年の1月から2月にかけて、豊中市、広島市、そして国立市、松戸市を視察した平和人権行政を学ぶ旅(既報)の一環でもありました。参加者は、私の他に再入国許可制度撤廃を求める会代表の崔(チェ)竜徳さん、事務局の山口隆さんの3人です。
 政令都市である川崎市は2月にら予算議会が開かれます。招集日を間近に控えるこの日の視察を心広く、そして議員ではないお二人も同席を認めてくださった市当局に感謝しています。当日は、議会事務局の春日啓志議事調査課長が市の概要を説明され、視察テーマの担当者である市民局人権・男女共同参画室主幹で、外国人市民施策担当の山崎信喜さんにバトンタッチされました。
(1)川崎市の外国人市民
 人口130万人を擁する川崎市には、2004年12月段階で26500人余の外国人が市民として登録されています。率にして2.03%。因みに金沢市の外国人比率は0.97%(05.3月現在)ですから2倍の外国人市民が定住しているわけです。人口の伸びより速いペースで外国人市民の人口が伸びており、出入国管理法が改正された1990年以降に定住した人々が永住者となり、全体の40%を占めるようになっています。川崎市の資料で見ると、国籍別では112カ国。朝鮮・韓国人、中国人の順に上位となっていますが、中国、フィリッピン、インド、ベトナム、マレーシアなどのアジア諸国からの定住者が急速に伸びています。従って、市内の114の小学校にはほとんどすべてに外国人児童が就学していますし、労働者というより、一般市民として生活しています。歴史的経緯をもつオールドカマーからニューカマーへの移行が進んでいます。
(2)川崎市多文化共生社会推進指針
 1900年代初頭から朝鮮半島はじめ世界各地から外国人が移り住んだ川崎市では、在日韓国・朝鮮人などへの差別や偏見を解消するために意識啓発や制度改善をすすめてきました。その一環が市職員採用にかかる国籍条項の原則撤廃(消防職、公権力行使、公の意思形成にあたるとされる部門の管理職任用は制限・いわゆる「川崎方式」’96年)でありました。近年、外国人市民が急増し、多文化共生社会実現が課題となってきたことを受け、2000年に策定した「川崎市人権施策推進指針」を踏まえた「川崎市多文化共生社会推進指針」を新たに2005年3月に策定したのです。 阿部孝夫市長は、「外国人市民は共にまちづくりを担うかけがえのない一員であるとの視点から、人権を尊重し、共に生きるまちづくりをすすめる」と述べています。
 「川崎市多文化共生社会推進指針」は、多文化共生社会の実現に向けた基本的な考え方と施策の具体的推進内容を示し、3年間で見直すこととしています。基本目標を国籍や民族、文化の違いを豊かさとして生かし、すべての人が互いに認め合い、人権が尊重され、自立した市民として共に暮らすことができる「多文化共生社会」の実現に置いて、次の三つの基本理念を掲げています。(1)人権の尊重 (2)社会参加の促進 (3)自立支援。その下で、五つの基本方向を定めています。
@行政サービスの充実・・サービス提供、情報提供、相談窓口、年金制度、保健・医療、福祉、住宅、防災 
A多文化共生教育の推進・・就学保障、学習支援、違いを認め合う教育、地域における学習支援、家庭へのサポート ※その基本方針として「外国人教育基本方針」を市教委がすでに1998年にまとめています。
B社会参加の促進・・市政参加、地域における外国人市民グループ等の活動
C共生社会の形成・・市民への意識啓発、市職員等の意識改革、市職員の採用、事業者への啓発、国際交流センターの活用
D施策推進体制の整備・・行政組織の充実、関係機関、ボランティア団体等との連携、国等への働きかけ
 具体的なとりくみを抜粋して列挙します。情報の多言語化(施策関連情報にはひらがなルビあり)、相談窓口の充実、人権オンブズマン制度の対象に外国人市民の人権侵害を含める、年金加入促進の広報啓発、外国人従業員の年金加入を事業者に働きかける、医療機関にかかる際の多言語資料の普及、外国人市民の母子保健充実、医療保険制度加入への啓発、事業者への働きかけ、医療機関への医療費対策の充実、外国人高齢者福祉手当、外国人心身障害者福祉手当の充実、DV防止の充実、住宅基本条例、居住支援制度の広報啓発、民間賃貸住宅の入居差別の解消、住居確保、防災情報の体制整備、教育相談体制の充実、日本語取得支援の充実、母語母文化・文化的アイデンティティ形成環境の整備、まちづくり各種会議への外国人委員の積極的参加、市審議会への外国人委員の積極的参加、住民投票条例への外国籍市民の参加検討、国への地方参政権実現の働きかけ町内会等への外国人市民の構成員としての認知、相互理解・交流の啓発、市職員の採用、任用のあり方検討、非常勤嘱託員、臨時的任用職員への外国人市民の採用、事業者に対する雇用差別防止の広報啓発、国際交流協会との連携充実、国・県へ外国人市民の生活に関わる法や制度の改善を要望。これだけからでも、川崎市が施策の充実を図ろうとするイメージが掴めるでしょう。こうした中に、外国人市民代表者会議も位置付いています。
(3)外国人市民代表者会議
 1996年、市職員採用の国籍条項原則撤廃の同年12月、外国人市民代表会議条例が制定され、外国人市民代表者会議を設置しました。目的に「本市の地域社会の構成員である外国人市民に自らに係る諸問題を調査審議する機会を保障することにより、外国人市民の市政参加を推進し、もって相互に理解し合い、ともに生きる地域社会の形成に寄与することを目的として、川崎市外国人市民会議を設置する。」を掲げ、「外国人の住みやすい町は、日本人にも住みやすい」を合い言葉に、実践を続けています。
 外国人市民会議は、26人市民から構成されますが、代表の身分は特別職の地方公務員、任期2年です。その選考は、登録者数上位5カ国に各一人、登録者数1000人以上の国に10人をその登録者数に比例して配分する、5カ国以外の国については、国連人権委員会の委員選出区分にしたがい、5地域にわけアジアに3人以上、その他の地域に各1人以上を配分するものとしています。募集は、公募によります。
 同会議は年間通して審議し、審議結果のまとめを市長に提出します。市長には、それを尊重する義務があります。受けた提言を施策に生かす取り組みを行い、行政内の自己評価を経て、代表者会議にまたフィードバックされます。
 任期一年次の04年度は、教育・文化部会、と社会・生活部会の二部会制をとり、部会審議、全体会議、フィールドワーク、オープン交流会を経て、年次報告を出し、二年次の05年度末に提言を市長に提出することになっています。教育・文化部会では、異文化理解教育、学習支援の課題で実情をふまえた議論が、社会・生活部会では、地方参政権をめぐる学習や討論が交わされています。市政参加、地方参政権の課題を中心に提言をまとめる予定と言います。
 1997年以来の提言項目は19項目に達し、(@留学生の生活支援、A国際交流事業、B就職問題・国籍条項、C住民投票制度、D外国語の広報・情報、E出入国管理行政、F子どもが放課後を過ごす場、G国立大学受験資格・外国人学校への助成、H外国人相談窓口、I外国人高齢者の年金・手当、J介護保険制度と外国人高齢者福祉、K年金の脱退一時金制度、L民間住宅の入居差別・居住支援、M公共住宅への入居、N外国人と日本人の子どもの相互理解、O多文化理解の推進、P母語を学ぶ機会の保障、Q外国人保護者と児童生徒への支援、R市立学校における国際理解教育)各担当部局がとり組み状況の評価を行い公表しています。一定の成果があったものはAとし、取組中・検討中はBとして継続してとりくむこととしています。このような積み上げにより、外国人市民自身の生活実感から具体的な制度、施策の改善が重ねられ、日本人市民との相互理解も進んできました。
(4)外国人居住支援制度
 提言でも触れられていましたが、外国人市民にとって、居住をめぐる差別・不利益の悩みは深刻です。そこで、川崎市は、住宅基本条例に基づいて、なり手が見つかりにくい保証人を市が肩代わりして居住差別を防ぐように取り組んでいます。川崎市住宅供給公社が作成したパンフレットには、制度に協力する不動産店が約200店舗あると書かれています。市は、公社、保証会社、川崎市国際交流協会と連携して不動産店、家主に働き掛けし、外国人市民の入居先を確保するとりくみをすすめています。
(5)質疑
Q1:共生施策推進パワーは何か。
A1:1972年の国民健康保険の適用以来の本市独自施策、1970年の就職差別裁判(パク裁判)以来の当事者の運動が出発点にある。
Q2:市民意識はどうか。
A2:市のスローガンは、公害都市から人間都市。人権を重視するのが基本姿勢である。市民団体の意向に耳を傾ける市長のリーダーシップが市民意識に反映している。
Q3:住民投票条例への参加の検討は。
A3:住民投票は、自治基本条例に明記している。外国人も参加の方向で、18年度中に条例案の上程を行う予定だ。
Q4:外国人の職員採用の状況はどうか。
Q4:現在は16人。応募の際には、国籍の記載はなく、採用後に国籍が分かるようになっている。
Q5:オールドカマーからニューカマーへと割合が移ってきているが。
Q5:双方に意識の違いがあることは事実だ。オールドカマーは制度改善に関心が強いが、ニューカマーは生活に身近な問題をより意識する傾向がある。しかし、ニューカマーはオールドカマーの経験から学んで相互理解が深まる。
Q6:神奈川県の施策との関連はどうか。
A6:外国人代表者会議は県にも同様の会議がある。県とは共感共通する面があり、連携できている。
(6)若干の所感
 視察終了後、崔さんの口から、こんな市に住めたら言うこと無いなあ。との言葉が漏れました。国籍条項の扱いには、昇任制限があるなど国の見解を脱し切れていない面が批判される川崎市ですが、外国人市民の市政参加、生活支援に重層的な施策を構築しており、私は、流石だなと脱帽しました。長い歴史と厚い市民の力がそれを生み出していることがよく感じられました。翻って足元の金沢市、石川県の状況はお寒い限りです。金沢で始まっている多文化共生研究会、国際交流財団の活動がどう発展したらよいのか、そのヒントが多くあるように思います。

2.再入国許可制度撤廃を求め、社民党全国連合へ要請
 同行した崔さん、山口さんの主目的は、再入国許可制度撤廃の要求を法務省に直接申し入れることでした。再入国許可制度は、定住外国籍人が日本を出国する際に事前に出入国間事務所に出向いて、再度入国する許可を得なければならない制度です。その許可年限は現在特別永住者の場合、他より1年長い4年となっています。
 再入国許可制度撤廃を求める会は、この間、外国人登録者に義務づけられている再入国許可制度は、とりわけ植民地支配に起因する歴史的経緯から日本に定住している「特別永住者」にとって極めて差別的で、入国管理に実質的に無意味な制度でもあり、制度の撤廃を文書で申し入れてきました。
 法務省に申し入れるに先だって、省との仲介の労をとってくれた社民党全国連合にも政策要望をすることになり、衆議院議員会館に、法務委員会所属、昨年のあの衆議院選で代議士復活なった保坂展人衆議院議員を訪問しました。衆議院議員会館にある保坂さんの事務所は、国会開会中とあって、議会対策の関係者が熱心に協議を行っていました。市民派代議士であり、ジャーナリストとして、金権政治の追及、社会保障制度に造詣が深い保坂さんは、忙しい合間を縫って、応対してくれました。翌日の法務省担当官への申し入れを控え、次のようなやりとりがありました。
〔崔竜徳代表、山口隆会員〕 
日本で生まれた在日が、「再入国」とはそもそもおかしい。ところが、法務省は、韓国籍者には許可年限を4年として、他より1年間優遇しているとの認識をもっている。
〔保坂展人代議士〕
在日の問題にはずっと取り組んできた。入官に関わる問題にも取り組んでいる。現在、法務委員会に属している。今後は、一年のスパンをもち、取り組めることからはじめて、運動を横に広げて頂きたい。

3.再入国許可制度撤廃を求め、法務省担当官に申し入れ
 明けて16日、再び衆議院議員会館を訪れ、保坂事務所が設定してくれた交渉場所に赴きました。法務省側は入国管理局入国在留課の田村明課長、同課丸井辰海永住審査係長が出席、こちらは、我々3人に保坂さん、秘書の大久保清志さんが同席しました。
 10時30分、まず、崔代表が申入書と個人の思いをつづった要求書を田村課長に手渡し、保坂代議士が、「再入国許可制度が固定化し、問題が出ていると要請を受けている。今国会に入管・難民法の改正案が上程されていることもあり、法務省としての見解を聞きたい。」と口火を切りました。以下交渉の概要です。
【法務省担当官との交渉概要】

田村課長 再入国許可制は、出入国の手続きである。日本人でも旅券が必要だ。期限が切れれば出国できない。外国人であっても、旅券かそれに替わるものをもって手続きして頂く。より余分な制限を設けているものとの認識はない。在留外国人一般に規定があり、在留資格をもって在住の法資格を維持する制度として再入国許可制度があるのだ。95年の日韓首脳会談を踏まえ、入管法の特例法で、特別永住者には特例として一般より1年延長して4年の許可年限を設定し、スムーズに出入国できるように優遇して運用していることを理解して欲しい。制限するためではなく、より簡便に海外に出られるように制度だ。
許可期限切れが気づかずに海外旅行に行けなかったり、我々にはトラブルが生まれている。制度撤廃で日本政府にどんな不利益があるというのか。
田村課長 在留資格維持のための制度だ。なければ出国によって在留資格を失うことになる。
優遇というなら、「特別永住者」の判さえパスポートに押しておけば済む話だ。
田村課長 見解の相違だ。
山口 言いたいのは、再入国にまつわる制度は、在日コリアンはじめ特別永住者には当てはまらないのではないのかということだ。
保坂代議士 うっかり忘れた場合はどうなるのか。それを防ぐためにパスポートの更新と合わせてはどうか。
田村課長 単純出国の場合は、本人に出国の際に再入国の意思を確認できる。緊急の場合は窓口で対応していて出られないということはないはずだ。
親戚が韓国に出国しようとしたときのエピソードが現にある。帰らざるを得ない人になぜ、許可があるのか。多くの在日コリアンはそうだ。日本で生まれているのに、再入国はおかしい。なぜ必要なのか  。
山口 入管法に再入国の規定があるのか。法務大臣の裁量ではないのか。
田村課長 法相の裁量ではない。入管法第26条によって規定されている。その特例法により、4年の年限を認めているのだ。永住者も外国人と認識している。
山口 そういう言われ方をすると、じゃあ、一体誰が連れてきたのかということになる。
この交渉に到るまで、会は再三要望書を送付してきたがなしのつぶてだった。それでここまでやってきた。法の問題であるというなら、法務省として法改正の検討をすべきだ。パスポート更新にあわせるという運用で改善できる部分はすぐに対応してほしい。不都合が発生していないかどうかは、全国的な調査を行えばつかめるはずだ。これらを強く要望する。
田村課長 現場窓口においては、歴史的背景に対する配慮をもって対応するように指導してきた。そのように対処していると思っているが、要望については受け止めたい。上司に伝える。入国管理法はテロ対策のために、写真指紋との照合を行うよう、厳密化と簡素化の方向で改正案が出されている。

【若干の所感】
 担当官との直接交渉は、もちろん会として初めてのことです。担当官は課長というポストであり、決定権限はほとんどありません。また、国家政策の根幹的な枠組みである出入国管理に関する変更が易々とできるとは思いません。直接当事者が、おそらくは初めて正式に当局に要求行動を行ったのです。その意味で、上司に伝えるとの言質があったことは第一歩としての成果と考えましょう。
 やはり、在留資格とはあくまで外国人の扱いであり、日本人とは見なしていない制度への異議申し立てであることが再確認されました。憤りを再実感するものでもありました。 保坂代議士は、今国会の法務委員会で質問として取り上げたいと約しました。そのための在留資格者の実際の出入国をめぐるトラブルの例を送ってほしいと要望されました。次の行動はそれに応えること。そして、運動の横への拡大にとりくむことです。

4.東京都世田谷区羽根木子どもプレーパーク視察
 課題はがらりと変わり、子どもプレーパークの視察へと転換します。二人と別れ、午後は世田谷区に移動して、子どもプレーパークの草分けである世田谷羽根木の子どもプレーパークを訪れました。12月議会で、大乗寺丘陵公園に本格的な子どもプレーパークの設置を求めました。珍しく私も評価する市教委の「自遊空間創造事業」。子どもたちに遊びの空間を取り返してやろう、いや奪ってきた大人たちが子どもたちに返してやろうの発想を原点に自遊創生団が生まれ、NPOをめざしプレーリーダーの養成も含めとりくみを続けているのです。私も力になりたいと思っています。遊びは成長の源泉ですから。
 子どもプレーパークとは、冒険遊び場と訳します。デンマーク発祥のプレーパークは、1940年代にイギリスからドイツ、スイス、また北欧全体へと広がりました。WEBサイトでプレーパークを検索してみてください。詳しく載っています。
 それにしても、世田谷区には、これで三度目の視察です。世田谷美術館、学校選択制見送り、そしてプレーパークです。施策が人間の方を向いているという感じがするのです。
 井の頭線東松原駅で下車し、歩くこと15分。世田谷区羽根木公園の一角に、黒い土の上に掘っ立て小屋が建ち、大木が何本も茂り、作り物が雑然と並んでいるスペースがあります。看板が掛かり、「プレーパークとは」と題して、説明書きがあります。ここだ。やってきました。
 立派な管理事務所があるわけでもなく、中の青年に金沢から視察に来たことを告げ、入りました。青年はプレーリーダー(子どもたちを見守り、時には遊びのヒントを与えて遊び創造の手助けをするお兄さんお姉さんのこと)のたかさんだった。たかさんと話しているうちに、子どもたちから魔女と怖れられている!世話人の斉藤さん、プレーリーダーののりたけさんもやってきて、プレーパークのこと、子どもたちのこと、遊びのこと、親たちのこといろいろな会話が弾みました。
 世田谷区は、1975年子どもたちの遊び環境に疑問を感じた親たちが、ヨーロッパの冒険遊び場に感銘を受けて自主的に始めた「桜丘冒険遊び場」の実践に動かされて、79年、国際児童年の記念事業として日本初の常設プレーパーク「羽根木プレーパーク」を開設しました。現在は、NPO法人プレーパークせたがやに事業は委託され、委託事業費を受けて、住民組織である世話人会が運営に当たっているのです。
 プレーパークの様子は、写真でイメージしてください。残念ながら、放課後まで時間があって、子どもたちの姿はありませんが。11日の休日は、ごった返していたそうです。 

 子どもたちは、いつも背伸びして生きている。いい子を演じながら。プレーパークは、自然な気持ちが赴くままにふるまえるところ、時には悪いことも許される。なのに、来たすぐの子どもは何をして良いか分からないという。やりたいように遊んでいいんだと安心し、遊びをやってみることができると、後はどんどん、遊びに熱中していくように変わっていくのだそうです。環境が変わったのであり、子どもが変わったのではないんだ。それが実感されると力説されました。ブームのようになっている登下校の見守り安全サポートにも異論が出ました。道草もできない毎日なんて、いつも大人に見られている生活なんて。大切なのは、子どもたち自身が大人は信じていいんだ、いやなことはいやと言っていいんだと思えること。そして言い切る力を身につけることが身を守る力になる、それをこのプレーパークで自然に身につけていく。子どもが育つということの本道がこの実践から湧きだしているようです。今では、子どもの保護者の育児相談や家庭の悩みまで相談に乗るようになって仕事が増えて大へんと魔女さんは苦笑いでした。プレーパークは、単純な原始的な空間なんですが、奥深いものでした。金沢の自遊創生団も視察に訪れているはずです。先駆の地との人つながりがまた伸びて、うれしい気持ちです。金沢での実現が大いに期待されました。またの再会を約束して視察を終えました。 

5.丸木美術館参観(埼玉県東松山市)
 丸木位里・俊夫妻がその支援者とともに建設した丸木美術館はよく知られている通りです。17日早朝、東京から電車を乗り継いで2時間。埼玉東松山市の片田舎にひっそりと美術館は建っていました。昨年、美術関係経営が危機に瀕したというので、全国の有志に募金が呼びかけられました。わたしも、些少ながらそれに応えていましたので、その後の美術館が気になっていました。
 確か15年ぶりぐらいの久しぶりの参観でした。原爆の図、水俣の図、南京大虐殺の図など、戦争の惨さ、愚かしさ、悲しみ、憎しみ、あらゆる感情を込めて大屏風図にしたためられた作品群に改めて圧倒されました。アフガン、イラク侵略に象徴されるようにアメリカの先制攻撃戦略の下で、米軍再編成が日本全土を巻き込んで展開されようとする今日、作品群のは人類史的な遺産価値を高めていると思います。募金によって危機的状況は脱したということですが、世界の反戦運動の共有財産として発展的に維持経営されることを期待してやみません。




6.女たちの戦争と平和資料館(早稲田)参観
 今は亡き不屈の女性ジャーナリスト、松井やよりさんの遺志を引き継ぐ「女たちの戦争と平和資料館」が開館しました。私も呼びかけに応えて資金提供に参加しました。早稲田大学キャンパスに隣接する教会エリアにある同資料館に初めて足を運びました。コンパクトなスペースに松井やよりさんが命を賭けてたたかった戦時女性軍隊性奴隷(従軍慰安婦)責任追及の運動、ハルモニ、東南アジアの被害者の方々のポートレイト、権力に挑んだジャーナリスト活動の歩みが展示されていました。題して「松井やよりの全仕事展」。
 晩年の松井さんは、戦争犯罪を裁く女性による国際戦犯民衆法廷運動に全精力を傾け、右翼、NHKの番組改ざん問題とたたかい、ついには病に倒れられました。ちょうどその時期に、私は、三度、松井さんとお会いしています。大東亜聖戦大碑の撤去を求める第一回全国集会の講師も沖縄の宮良ルリさんと共に松井さんにお願いしたのでした。あれから五年、松井やよりさんは、疾風のように駆け抜けて逝ってしまったのです。課題はより重く、深刻さを増しています。静かに資料館にたたずんでいると、「エンパワーメント」を力説したおられた松井やよりさんのパワーがじんわりと心に熱を起こしてくれるような気持ちになるのです。五年前の私は、教員でした。考えてみれば私も他界したようなものかも知れません。異なるが隣り合わせのフィールドに。エネルギーをもらって、来沢しました。




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