2019.5 韓国月進会から31人の訪問団を迎えて

今度は、韓国から月進会訪問団31人を金沢に招いて
 友好を深め、これからの平和連帯の活動を協議した

2019年5月31日から、全体日程6月2日ー3日(立山~白川郷)まで、金沢百万石まつりに合わせて来訪
 31日(金)◆野田山暗葬之跡での法要 14:00から
                           ◆金沢市表敬訪問
  
       ◆東山散策 
       ◆歓迎宴への参加 
                                 会場 ホテルKKR金沢 18:30開宴 

  1日(土)◆東北アジアの平和連帯を考える意見交換会 
         9:30より 市議会内7F第2委員会室にて
       ◆金沢城公園営倉跡フィールドワーク、兼六園散策
       ◆百万石行列観覧 
15:00頃から
       ◆もてなし夕食交流会 料理持ち寄り参加 
                                                 15:00準備開始 17:30開宴 
                会場 中村町善隣館2Fホール

  2日ー3日(立山~白川郷)に随行(森事務局長、半沢理事)


「聖地」金沢に月進会訪問団

 尹奉吉義士が眠る野田山暗葬之跡を保存する金沢を、李佑宰月進会名誉会長は聖地と呼ぶ。金沢の人々と出会うと日本人の見方が変わると李泰馥(イ・テボク)会長は言う。
 歴史認識が埋まった訳ではないが、人間同士の出会いがある。肌感覚で伝わるものがある。それは写真から伝わるだろう。東北アジアを平和の共同体にしよう。

   

金沢市が、共に歓迎宴を催してくれ、オーケストラ・アンサンブル金沢のヴァイオリン奏者、チェロ奏者がアリランを奏でる。民族舞踊が披露される。いつしか、渾然一体に。
   
 

大目標も小さな行動から

 午前中、メイン行事である「東北アジアの平和連帯を考える意見交換会」。
 この一年の活動を振り返り、独立運動100年の今年、どう共同行動を発展させるかを真剣に議論した。

 歴史認識と戦後補償をめぐる両国世論の厳しい対立。その背景。かつて日本政府は、加害責任を認めないまま朴正煕親日軍事独裁政権と日韓条約を締結し、経済協力にすり替えた。それでも、日本政府は個人の賠償請求権は消滅していないと度々答弁せざるを得なかった。それが安倍政権では、覆い隠されている。
 これをいつもは温厚な李泰馥会長は「いつになったら反省するのか?」と不快感を言葉にした。地方議会にも波及した歴史認識と責任に対する対立を解消するには、史実に真摯に向き合うための市民への発信が必要だ。その担い手を広げなくてはいけない。教育を通じた若者への継承。教育関係者との意思共有。世論形成には、多様な団体との連携。
そして、独立した自治体が国境を越えて連携する。金沢市–全州市、全州市–禮山郡、全州市–蘇州市、蘇州市–金沢市–禮山郡 石川県–全羅北道–忠清南道
こうした東北アジアの自治体間連帯の可能性をさらに追求したい。

 南北首脳会談から一年。米朝首脳会談からやがて一年。足踏みの要因は米朝の核をめぐる思惑の違い。韓国は仲介平和外交に努めてきたが、膠着状況にある。日本政府にはアジアの側で尽力をと切な願いも出された。
 軍事力の衝突は望まない市民世論を形成するために、訪朝など朝鮮を理解する取り組みが必要になっている。月進会の理事には、事業や人道支援活動を通じて北朝鮮とパイプを持つ方々が活動している。この面でも協力できるということだ。

 まずは禮山郡での秋のシンポジウム、金沢での市民報告集会、そして独立紀念館との共同学術会議などで、語られた様々な課題を具体的に達成する。

人間同士 人間同士のお付き合い

 大名行列に嬉々として
 手料理持ち寄りのもてなし夕食交流会は民族音楽の饗宴
   

人気の立山観光に大はしゃぎ
 
 
心に染みる互いの信頼の言葉

これに勝る平和の力はない。
 

月進会訪問団は感謝の言葉を繰り返し帰国

     5月31日金曜日から金沢入りした韓国月進会訪問団31人は、最終日程のますの寿司工場、白川郷、南砺市井波の瑞泉寺の見学を終えて、富山空港を後にした。4日間、本当にたくさんの市民有志のお力を頂き、無事目的を果たすことができた。私からも深く感謝を申し上げたい。

 井波の彫刻街を歩いていると、木彫り品店のご主人か話しかけてきた。囲碁をやっていて、韓国に囲碁の交流に出かけたことがある。入国したら後は無料でお世話してもらった。(感謝の気持ち) 今は、国同士が対立して囲碁交流も止まってしまったと。(残念そうに)
私は、金沢の議員ですが、また再開できるようになったらいいですねと応じると、よろしくお願いしますと、富山弁で返ってきた。

 この話を別れ際のバス内で一行に伝えると、皆深く頷いていた。私は一義的に日本の側に、歴史認識と人々への戦後補償に誠実に向き合う責任があると考えている。この平和連帯活動と人間同士の付き合いに関わっている者は同じ思いだと彼らは理解している。だから、私たちの置かれた日本社会での位置や困難に深く共感して、私たちを気遣い、大へん大切にしてくれるのだ。

 課題はさらに発展的に大きくなる。共同シンポジウムをどう企画していくか、すぐに次なる活動が始まる。